應典院

2010年1月19日火曜日

プログラムはお休み、でも大切な打合せ

 1月19日、今日はコモンズフェスタ2009/2010「U35の実力」の会期16日間のあいだで、展示以外の催しがない2日のうちの1日目。だからと言って、スタッフは休んでいられません。催しがなくとも、催しのために動く日も必要だからです。そんなわけで、今日は朝から打合せや買い出しなどに時間が充てられました。
 朝には、24日の午後に実施される、大阪アーツアポリアの企画運営によるブックアートワークショップの下見のために、中西美穂さん、ふるさかはるかさん、そしてロセラ・マトモロスさんが来られました。ロセラさんはコスタリカの美術家です。今回のワークショップには「リフレクト・アクション~素材を交換して本をつくろう!~」とあるように、参加者の皆さんどうしが即興で本をつくっていくというものです。今回は使いませんが、應典院の本堂も見学いただいて「とても現代的で、宗教家の話を聞くだけ以上に、生や死のことを考える、素晴らしい場だ」と感嘆のことばをいただきました。
 スペイン語圏のご出身であるロセラさんとは英語で会話をしました。そのとき、「現代的」という意味のことばには「modern」ではなく「contemporary」を使い、しかも、何度もcontemporaryと仰っていたのが印象的でした。恐らく、「モダン」という意味には、いわゆる近代の合理主義という観点も重ねらるため、あえて今の時代に共鳴する問いかけがなされている、という視点を強調しておられたのだと思っています。もちろん、その背景には、ロセラさんが現代美術(contemporary art)の世界で活躍しておられる、ということも影響しているとも感じています。
 その後、次年度の應典院のスタッフ体制について、主幹(山口)&主事(森山)の意見交換に続き、築港ARCのサブディレクター(蛇谷)を交えて、23日・24日の「ミニ★シティ」の進行の打合せを行いました。ちょうど、直前の意見交換にて「段取りの確認をしただけでは、その企画に埋め込まれた意図や、その事業の背景にある思想は共有できない」という話をしたところでしたので、時間の流れだけではなく、それぞれの役割と、その役割をその人が担う理由について、細かく確認してみました。それらを通じて、こどもとおとなが共に場を創造する企画ゆえ、水平的な人間関係を構築したいという趣旨に対して、そうした関係を誰がどう意識、配慮していくべきなのか、といった観点が浮き彫りになりました。果たして、應典院の本堂ホールに、どのようなまちが出現するのか、23日、24日が(スタッフの我々も)楽しみです。

2010年1月18日月曜日

コミュニティのチカラ

 カタカナ語ばかり使うな、と言われることがあります。今日のブログの投稿に対しても、そう言われるかもしれません。しかも「力」でも「ちから」でもなく、「チカラ」などと、わざわざカタカナで書く必要がないことにまで、とご指摘をいただきそうです。ただ、一つお伝えをしておきたいのは、カタカナがかっこいいと思っていて多様しているのではない、ということです。外国起因の概念ゆえに無理矢理日本語に翻訳しない方がよい、あるいは、既存の概念を疑ってみたい、そういうときに、カタカナをあえて使っているのです。
 で、今日の話題の一つは「エクソダス」です。またカタカナなのですが、ここでは標記のとおり、「コミュニティのチカラ」を、改めて実感させられました。既にエクソダスは12月18日と1月10日に開催してきているのですが、今日は、朝の回も、夜の回も、それぞれにこれまでのどれとも違う印象を覚えました。朝のエクソダスは、われわれのスタッフやチラシのデザイナーをして「誤植」と勘違いされた「朝6時」からの開催でした。夜のエクソダスは夜7時からの開催で、アメリカ村に向かいました。
 簡単にエクソダスの解説をしておくと、集団でまちに繰り出し、参加者が一丸となって一つの出来事を作り上げる、という企画です。その出来事を作り上げるあいだに、どれだけの人が巻き込まれていくのか、さらには巻き込れた人々は、巻き込まれる前、巻き込まれる瞬間、そして巻き込まれた後、どのような雰囲気に包まれているのか、ということを明らかにしようという社会実験とも言えます。集団力学という定訳がある、グループ・ダイナミックスを専門としている私にとっては、極めて興味深い協働的実践でもあります。具体的に朝には、大阪城天守閣で開催されているラジオ体操会にスーツで参加するということ、夜には、アメリカ村を探索する(そして最後には三角公園にピザを宅配して、公園にいる人たちにもふるまってみる)、というものでした。
 これまで皆出席を通してきた私ですが、今日の夜にはBBA(ボーズ・ビー・アンビシャス)関西の第6回準備会に参加させていただき、エクソダスには應典院の森山主事が参加しました。それぞれの詳しいレポートは、またコモンズフェスタのブログで紹介させていただくことにしたいと思いますが、とにかく、それぞれのまちには固有の文化があって、人々の行動にはまちの文化的な特性が反映する、このことを、のべ4回のエクソダスで再確認しているところです。もちろん、こうした地域コミュニティだけでなく、夜に行ったBBA関西の集まりでも、会話の幅の広がりと、それぞれの日常で向き合っている問題の深さに、僧侶というコミュニティが持っているチカラを感じたりもしました。

2010年1月17日日曜日

震災15年、追悼法要、秋田光彦住職法話。

南無阿弥陀仏。1月17日、應典院では例年どおり、「この日」に、物故者を追悼する場を持ちました。「あの日」から15年が過ぎた今年は、震災世代とも言えるアラウンド35の皆さんを招いた寺子屋トークを開催することにいたしましたので、その開会前に、一般の方を交えた法要を行いました。その法要の後の住職の法話の内容を、ぜひ多くの方に知って頂きたいと願い、携帯電話(iPhone)で録音したものを文字に起こし、住職の加筆修正の上、公開させていただきます。





 このお寺の住職で秋田と申します。今日はコモンズフェスタの2日目ということで、この時間にご参集をいただきましてありがとうございます。とりわけ今日、この日、1月17日の記憶は、皆さんそれぞれに胸に深く刻まれていると思います。
 もう15年も前のことになりますが、私も被災の現場で数多くの体験、数多くの出来事を目撃しました。例えば、それまで、お葬式でお坊さんが泣くというのを見たことがなかった。震災の中で、葬式を勤めながら導師が、真ん中に座っているお坊さんが、おいおい泣きじゃくりながら読経している姿を見たのは初めてでした。また、どちらかというと誰にでも偉そうにしていたお坊さんが、ダウンに着替えて、つるつる頭にタオルを巻いて、若い大学生たちと一緒になって、バケツリレーをしたり、炊き出しをしたり、お風呂の掃除をしたりしている姿を見たのも、恥ずかしながら初めてです。
 どこか超然とした、日常のステージとは違うところに居座っていそうなお坊さんたちが、まちの階段の下へ、ふもとへ降りてきて、そしてみんなと一緒に、汗をかきながら、泣きながら、あの現場を共体験していった。これは当時、まだ40歳手前の私にとっては、大変大きな体験であり、それがこの應典院の出発点にもなっています。
 もう一つ、非常に尊いものを現場で目撃しました。
 私はボランティアコーディネーターの真似事をやっていまして、当時は臨時的なボランティア拠点みたいなところがあちこちに点在していたんですが、ちょっと所用があって、芦屋の市役所に出向いたとき、驚くような光景に出合いました。ちょうど土曜日だったので、あちこちから集まってきた、いわゆる土日だけの中高年のボランティアたちが役所の中に鈴なりの列をなしていて、「この列は何ですか」と聞くと「それぞれがボランティアの仕事の振り分けで、コーディネーターから指示を受けているんだ」。その順番待ちの列が長蛇の列をなしていたんですね。
 きっと、これだけの人を動かしている人は大物で、ボランティアの偉いさんだろうと思って、その列の先頭に行くと、そこに立っていたのは19歳の若い女性でした。19歳のすっぴんの、こう言ったら失礼ですが、まだ学生顔の彼女が、自分の父親、母親ぐらいの年代の人たちに、とても誠実に、また相手の希望をよく聴いて、じつに的確にボランティアの指図をマネジメントしていたという現場を目撃しました。彼女の配下には、それこそちょっとつっぱり風の男の子たちもたくさんいて、芦屋の市役所を拠点に、エリア一帯に救援物資を運んでいる状況も見ました。
 それまで日本社会には、大人と子どもとか、メジャーとマイナーとか、まあ、ある意味では、私たちの社会にはある揺るぎない構図があったのですが、目の前にあったものは実に心地よく、その構図をひっくり返すような出来事でもありました。そこには、一つの願いを共にする、世代や立場やキャリアを超えた、人々の新しいつながりを見て取ることができた。それは私にとって鳥肌が立つような、新しい体験でもありました。当時19歳だった彼女は今、34歳。今、どこにいらっしゃるのか、何をされているのか、知りませんけれども、恐らく、その19歳の彼女の姿にダブらせて、何百人、いや何千人、何万人という19歳たちが、あの現場を駆け巡っていたことは、皆どこかでご記憶かと思います。
あれから日本の地域社会は音を立てて変わり始めた、と私は実感しています。それまで、教科書の中や地縁的なしがらみの中でしか感じ得なかった「地域」とか「コミュニティ」ということばが、まったく違う輝きを帯びて、私たちの前に立ち上がってきました。そして、地域に暮らすとか、コミュニティに生きるということへの出発点として、あの19歳の彼女が、まっすぐに手を挙げてくれたんだ、ということを、今、振り返ってみてつよく感じさせてもらっています。その頃すでに私は中年の域に達していましたが、何か「よーし、がんばらなあかんな」という気持ちと、「ああ、日本は変わっていくんだな」という、何か無性にこみ上げてくるものを感じて、その原体験が應典院という寺の原点になっています。
 もう、名前を忘れてしまいましたけれども、19歳のあなた、本当に、ありがとう。そして、芦屋のあなただけじゃなくって、ここにいらっしゃる方もそうかもしれませんが、あの頃、まだあんまり世の中がよくわかっていなかったと思いますが、なぜか現場をp駆け巡っているうちに、「ああ、ここが私が生きる現場なんだ」と確信して、そこで人生のチャンネルにピタっと来た人、たぶんここに何人かいると思いますが、皆さん、その後、がんばっていますか。あなた方のこれまでとこれからを、ささやかなことしかできませんが、應典院は「支える」、というよりも「一緒に居続けたい」と今も願っています。そして15年、また20年、30年経って、そのころ私がいるかどうかわかりませんが、お寺はあると思いますので、どうか應典院で巡り合った今日の日を、次への中継点にしながら、胸の中で末永く温めていただけたらな、というふうに思っています。
 正面にいらっしゃる仏さまは、浄土宗のご本尊、阿弥陀如来さまです。右に掲げた手は、よく励めよ、という意味、左にさしのべられた手は、よく抱けよ、という意味があります。どんなに傷つけられ、悲しみの淵に立たされても、私たちは誰かとのつながりの中で励むことができる、誰かを抱きしめることができる。そのシンボルとしての仏さまが、今、正面にいらっしゃいます。難しい信仰の話をするわけではないのですが、どうか私たちの記憶の中に、一つの意志としての、決意としてのお姿を、この阿弥陀さまに見てとりながら、今日のこの日を、改めて深く噛みしめていただけたら、ありがたく思います。
 今日は本当にありがとう。お帰りなさい。

2010年1月16日土曜日

コモンズフェスタ2009/2010 開幕!

 本日、コモンズフェスタ2009/2010「U35の実力〜+socialの編集者たち」が開幕いたしました。展示開始時間には、まだ展示構成ができあがっていない、搬入等々の車がガス欠、荷物引き取りの段取りに手間取る、など、バタバタでの開幕でした。スタッフの口から、つい出てきたのは「戦場」ということばです。確かに、とりわけ「時間」との戦いでありました。
 初日にあたる本日は、10時から、サウンドアーティストの中川裕貴さんによる「editing body around the sounds」という企画が2階「気づきの広場」にて行われました。この期間中、花村周寛さんの手によって、墓場を見下ろすロビーは、「公園」に変身(トランス)しております。よって、公園でチェロを弾いている若者、というような風景が成立していました。そうした空間において、中川さんはただ弦楽器の生演奏するだけでなく、楽器を無理やり電気増幅させる「ライブエレクトロニクス」という手法を用い、應典院の外の音(例えば、車の通る音など)を交えて、何とも言えない不思議な時間を生み出していただきました。
 その後、17時からは、2006年度より(2回のコモンズフェスタでの開催分は除いて)piaNPOにて展開してきた「ARCトークコンピレーション」のファイナル、30回目が本堂ホールにて開催されました。この催しは、その名のとおり、「コンピレーションアルバム」と言われる音楽CDがあるように、多様な人やテーマをある方針に基づいて1つにまとめるトークイベントとして展開してきたものです。最終回のゲストは、今回のコモンズフェスタでの空間構成を担当いただいている花村周寛さんでした。スライドを使って説明をしたい、という考えもお持ちだったのですが、ここは後にポッドキャストにも音声が乗る、ということで、今回の展示に重ねた「公共性への揺り戻しという問いかけ」について、素の語りをお願いいたしました。
 ちなみに、應典院の本堂ホールは、まさに「本堂」という名が含まれているとおり、中央にご本尊がおられます。よって、本堂ホール内での飲食はご遠慮いただいているのですが、今回は「特別」の機会、ということで幕の内にお隠れいただき、花村さんのトーク終了後に過去のゲストの方々と共に歓談と振り返りのパーティーを行いました。秋田光彦住職曰く「感度が高そうな人たちが集まっている」とのこと。今回の内容もまた、ポッドキャストで配信されますので、またhttp://www.webarc.jp/arcaudio/をお楽しみください。

2010年1月15日金曜日

「U35の実力」 いよいよ開幕へ

 1/16開幕のコモンズフェスタ2009/2010、会場での仕込みも大詰めとなって参りました。本日は花村さんによる「トランスパブリック」、中川裕貴さんの「editing body around the sounds」、上田假奈代さん・岩淵拓郎さんの「ことばくよう」と、展示・表現系3組の仕込みが行われました。スタッフの機運も急激に高まって来ています。ちなみに、運送屋さんなど、出入りの業者の皆さんにも、新鮮な感動と意外性への驚きを覚えていただいているようです。
 そんななか、本日、相次いで3つの新聞記事が出ました。一つめは過日お伝えした毎日新聞の「ことばくよう」の記事です。二つめが、以前主幹の山口が京都新聞から受けた当時の「震災ボランティア」の今に関するインタビューです。そして三つめが奈良日日新聞で主幹が連載しているコラムの三回目として「震災と慈悲」について記したものでした。
 これは住職がかねがね仰っているのですが、現代人の新聞離れ、あるいは活字離れが進んでいる中、改めて、新聞というメディアの特性や可能性は何か、というのを、取材、そして掲載を受けて感じました。個人的な印象にすぎませんが、このところ続けている、あるいは続いているTwitterと比較して言うと、「制約」という点に、その問いを解く鍵があるのではないか、と思いました。つまり、Twitterには登録制で140字しか執筆できない制約があるのですが、新聞もまた、毎日発行で紙幅の限りという制約があります。
 ただ、Twitterと新聞には、自分が「伝える」側と「伝えていただく側」という圧倒的な違いがあります。そう思うと、新聞の記事と情報欄とコラムと広告は、それぞれにまた意味合いが違うとも考えるところです。もっと言えば、写真の有無、記者の方の署名の有無、さらにはカラーか白黒か、果てにはどこの新聞か、というのも、情報を受け取る側のモードを左右するでしょう。ともあれ、相次いで3つの記事を掲載いただくことになった震災15年の間際、以前は成人式だったこの日。当然のことかもしれませんが、徐々に「あの日」を強く意識するようになってきています。

2010年1月14日木曜日

取材から15年前を想い起こす


 本日、読売新聞の記者の方に、1月17日の寺子屋トークに関する取材をいただきました。いよいよ開催が迫ってきたところですが、一人でも多くの方に参加をいただきたいという私の願いと、記者の方の「どんな人がなぜこのような企画を組み立てのか」を知りたいという思いが重なって、2時間弱、取材と撮影をいただきました。途中、ゲストの谷内博史さんにも電話にてコメントをいただいたのですが、さて、いつ、どんなふうに掲載されるのかが楽しみです。

 今回、長時間にわたって取材を受け、取材に対応させていただいたのは、私が震災当時、神戸大学の国際文化学部の避難所でボランティアをさせていただき、記者の方がその体育館に避難をされていた、というつながりがあったためです。まずは先週の木曜日に電話で取材をいただいたのですが、そのとき「なぜこのゲストの組み合わせだったのか」と訪ねられ、私自身の経験も交えてお話したところ、こうした運びとなった次第です。私は1月30日に、まずその避難所に向かい、2月1日から開始を予定としていた立命館大学ボランティア情報交流センターのボランティア受け入れの下見に行き、その後2月1日から1週間ほど現地に滞在して、受付のお手伝いやこどもたちの遊び相手、さらには救援物資の整理等、その場の状況にあわせたお手伝いをさせていただきました。その記者の方は、避難所の受付によく座っておられ、避難所から仕事に行く方が増えてきた頃には、避難されていた特に主婦層の方々の話し相手になったりしておられたそうです。
 そんな2人のつながりがあったので、成功談や美談だけでなく、少なくとも私からは失敗談や懺悔の念が出ました。特に、その避難所にいらっしゃって、受付の対応もされていたということもあったので、少し本題から離れ、「ノート事件」とでも言える、ある出来事について、それぞれの印象を語り合うことになりました。簡単に言うと、ある日(私が一旦京都に帰る直前だったので、その避難所で活動して1週間程経つ頃)、ボランティアスタッフの連絡帳として、リレー形式で綴っていたノートを、お手伝いをさせていただいた避難所の受付に置き忘れ、その中身に目を通された避難所の方の怒りを買い、一旦活動の拠点としては撤退をすることになった、という出来事です。若気の至り、と言えばそれまでのことだったのでしょうが、その後、私が「フィールド(現場)」に関わるときには一定の緊張感を持たなければならない、と強く考えるようになったきっかけの一つとなっています。
 「長らく震災から遠ざかっていた気がするのですが、きっと、ずっとあのときのことを携えていくんでしょうね」というのが、私たち2人に共通する「あの日」に対する感情です。そして、恐らく、あの日、あのとき、あの場所に身を置いた人は、それぞれの引き取り方で、<KOBE>のことを引き受けており、今後も引き受けていくのではないかと思っています。ちなみに、例のノートで、被災者の方が怒り心頭に発することになったことばは、「被災者の自立を促す」といったことばが綴られていたことによる、それが本日確認できたことでした。ちょうど、私の恩師の渥美公秀先生がクローズアップ現代に出た日に、こうした取材を受けることになったのも不思議な感じですし、改めて「なぜ、非常時に京都からわざわざ学生が駆けつけ続けたのか」、また「どこかで感謝を求めていなかったか」というようなことを、中田豊一さんの「ボランティア未来論」なども読み返しながら、また振り返ってみたいと思いました。

2010年1月13日水曜日

コモンズフェスタ「トランス・パブリック」仕込みはじめ

 いよいよ、コモンズフェスタ2009/2010の期間全体を貫く展示「トランス・パブリック」の仕込みが始まりました。空間構成をいただいているのは、ランドスケープ・デザイナーの花村周寛さんです。これは一目瞭然、なのですが、「道路標識」をモチーフにした展示が、應典院の各所に置かれています。まちのなかで随所に見かける「記号」である道路標識が、應典院というお寺の内部空間へ持ち込まれているのです。
 当初、この企画には、「パブリックモード/プライベートコード」という名前がつけられていました。private codeとは通常は暗証コードを意味するそうです。なぜ、そこに「パブリックモード」という、対比的な概念が合わさったのか。そして、なぜ「トランス・パブリック」という名前になったのか。まずは、以下、花村さんがまとめられたコンセプトをご参照いただければ、と思います。

「みんなのため」がパブリックだとすれば、何をすることがみんなのためになるのかがとても見えにくい時代に僕らは社会に出た。そんな僕らは、とてもプライベートな「自分のために」していることをみんなと共有していくことからパブリックを考えようとしているのかもしれない。この空間構成/インスターレションではプライベートとパブリックを反転させたり相互貫入することで 僕らの時代のパブリックを問い直してみたい。街にあふれているパブリックの記号を使って、プライベートな表現をしてみること。あるいはプライベートな行為をパブリックスペースの中に差し込んでいくこと。空間展示だけではなく行動展示なども 交えながらパブリックのコードとプライベートのモードをクロスし、その境界を曖昧にしていくこと。そんな僕らの世代の共有感覚を表現したい。

 では、なぜ、名前が変わったのか、一言でまとめるなら、花村さんの「こだわり」となるのですが、「トランスパブリック」とした方が、上記のコンセプトを直接表現するものとなるだろう、との判断に至ったためです。実際、本日、應典院2階の「気づきの広場」には人工芝がひかれ、お寺のロビーが「公」園へと「トランス」しました。こうした空間に道路標識のモチーフによって表現された「私的」な情報が展示されていくことによって、「公」と「私」がうまく倒錯していくことになるでしょう。とまあ、ここまで文字で表現しながらも、結果として「百聞は一見しかず」ですので、どうぞ16日から31日まで、パブリックなモードをまとい、少しだけ「異化」された應典院にお越しください。

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