tag:blogger.com,1999:blog-79629042606887167162024-02-19T16:29:29.685+09:00應典院山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.comBlogger588125tag:blogger.com,1999:blog-7962904260688716716.post-19689572524868269572010-01-19T18:40:00.001+09:002010-01-20T16:21:35.307+09:00プログラムはお休み、でも大切な打合せ 1月19日、今日はコモンズフェスタ2009/2010「U35の実力」の会期16日間のあいだで、展示以外の催しがない2日のうちの1日目。だからと言って、スタッフは休んでいられません。催しがなくとも、催しのために動く日も必要だからです。そんなわけで、今日は朝から打合せや買い出しなどに時間が充てられました。<br /> 朝には、24日の午後に実施される、大阪アーツアポリアの企画運営による<a href="http://bookartpic.exblog.jp/13154239/">ブックアートワークショップ</a>の下見のために、中西美穂さん、ふるさかはるかさん、そしてロセラ・マトモロスさんが来られました。ロセラさんはコスタリカの美術家です。今回のワークショップには「リフレクト・アクション~素材を交換して本をつくろう!~」とあるように、参加者の皆さんどうしが即興で本をつくっていくというものです。今回は使いませんが、應典院の本堂も見学いただいて「とても現代的で、宗教家の話を聞くだけ以上に、生や死のことを考える、素晴らしい場だ」と感嘆のことばをいただきました。<br /> スペイン語圏のご出身であるロセラさんとは英語で会話をしました。そのとき、「現代的」という意味のことばには「modern」ではなく「contemporary」を使い、しかも、何度もcontemporaryと仰っていたのが印象的でした。恐らく、「モダン」という意味には、いわゆる近代の合理主義という観点も重ねらるため、あえて今の時代に共鳴する問いかけがなされている、という視点を強調しておられたのだと思っています。もちろん、その背景には、ロセラさんが現代美術(contemporary art)の世界で活躍しておられる、ということも影響しているとも感じています。<br /> その後、次年度の應典院のスタッフ体制について、主幹(山口)&主事(森山)の意見交換に続き、築港ARCのサブディレクター(蛇谷)を交えて、23日・24日の「ミニ★シティ」の進行の打合せを行いました。ちょうど、直前の意見交換にて「段取りの確認をしただけでは、その企画に埋め込まれた意図や、その事業の背景にある思想は共有できない」という話をしたところでしたので、時間の流れだけではなく、それぞれの役割と、その役割をその人が担う理由について、細かく確認してみました。それらを通じて、こどもとおとなが共に場を創造する企画ゆえ、水平的な人間関係を構築したいという趣旨に対して、そうした関係を誰がどう意識、配慮していくべきなのか、といった観点が浮き彫りになりました。果たして、應典院の本堂ホールに、どのようなまちが出現するのか、23日、24日が(スタッフの我々も)楽しみです。山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7962904260688716716.post-80974129507346694232010-01-18T23:44:00.000+09:002010-01-20T14:45:24.978+09:00コミュニティのチカラ カタカナ語ばかり使うな、と言われることがあります。今日のブログの投稿に対しても、そう言われるかもしれません。しかも「力」でも「ちから」でもなく、「チカラ」などと、わざわざカタカナで書く必要がないことにまで、とご指摘をいただきそうです。ただ、一つお伝えをしておきたいのは、カタカナがかっこいいと思っていて多様しているのではない、ということです。外国起因の概念ゆえに無理矢理日本語に翻訳しない方がよい、あるいは、既存の概念を疑ってみたい、そういうときに、カタカナをあえて使っているのです。<br /> で、今日の話題の一つは「エクソダス」です。またカタカナなのですが、ここでは標記のとおり、「コミュニティのチカラ」を、改めて実感させられました。既にエクソダスは12月18日と1月10日に開催してきているのですが、今日は、朝の回も、夜の回も、それぞれにこれまでのどれとも違う印象を覚えました。朝のエクソダスは、われわれのスタッフやチラシのデザイナーをして「誤植」と勘違いされた「朝6時」からの開催でした。夜のエクソダスは夜7時からの開催で、アメリカ村に向かいました。<br /> 簡単にエクソダスの解説をしておくと、集団でまちに繰り出し、参加者が一丸となって一つの出来事を作り上げる、という企画です。その出来事を作り上げるあいだに、どれだけの人が巻き込まれていくのか、さらには巻き込れた人々は、巻き込まれる前、巻き込まれる瞬間、そして巻き込まれた後、どのような雰囲気に包まれているのか、ということを明らかにしようという社会実験とも言えます。集団力学という定訳がある、グループ・ダイナミックスを専門としている私にとっては、極めて興味深い協働的実践でもあります。具体的に朝には、大阪城天守閣で開催されているラジオ体操会にスーツで参加するということ、夜には、アメリカ村を探索する(そして最後には三角公園にピザを宅配して、公園にいる人たちにもふるまってみる)、というものでした。<br /> これまで皆出席を通してきた私ですが、今日の夜にはBBA(ボーズ・ビー・アンビシャス)関西の第6回準備会に参加させていただき、エクソダスには應典院の森山主事が参加しました。それぞれの詳しいレポートは、またコモンズフェスタのブログで紹介させていただくことにしたいと思いますが、とにかく、それぞれのまちには固有の文化があって、人々の行動にはまちの文化的な特性が反映する、このことを、のべ4回のエクソダスで再確認しているところです。もちろん、こうした地域コミュニティだけでなく、夜に行ったBBA関西の集まりでも、会話の幅の広がりと、それぞれの日常で向き合っている問題の深さに、僧侶というコミュニティが持っているチカラを感じたりもしました。山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7962904260688716716.post-27256651147395725242010-01-17T12:54:00.008+09:002010-01-19T08:04:15.236+09:00震災15年、追悼法要、秋田光彦住職法話。南無阿弥陀仏。1月17日、應典院では例年どおり、「この日」に、物故者を追悼する場を持ちました。「あの日」から15年が過ぎた今年は、震災世代とも言えるアラウンド35の皆さんを招いた寺子屋トークを開催することにいたしましたので、その開会前に、一般の方を交えた法要を行いました。その法要の後の住職の法話の内容を、ぜひ多くの方に知って頂きたいと願い、携帯電話(iPhone)で録音したものを文字に起こし、住職の加筆修正の上、公開させていただきます。<br /><br /><a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhMg-Q6tRiTYq4ccgyUM6YZ9o-BG6IOWlFpYiJNe1vPIBPCKqF-fnZTIquWvf_MG6kUGlmfYJjBtIdHsbhkTvnNEIrokYKBNGwOWtE4gaeG9binTBkrzGGmkpYXRmiImTde-d-YKOOqnq5g/s1600-h/IMG_2963.JPG"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 320px; height: 240px;" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhMg-Q6tRiTYq4ccgyUM6YZ9o-BG6IOWlFpYiJNe1vPIBPCKqF-fnZTIquWvf_MG6kUGlmfYJjBtIdHsbhkTvnNEIrokYKBNGwOWtE4gaeG9binTBkrzGGmkpYXRmiImTde-d-YKOOqnq5g/s320/IMG_2963.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5428219404136784722" /></a><br /><HR><br /><br /> このお寺の住職で秋田と申します。今日はコモンズフェスタの2日目ということで、この時間にご参集をいただきましてありがとうございます。とりわけ今日、この日、1月17日の記憶は、皆さんそれぞれに胸に深く刻まれていると思います。<br /> もう15年も前のことになりますが、私も被災の現場で数多くの体験、数多くの出来事を目撃しました。例えば、それまで、お葬式でお坊さんが泣くというのを見たことがなかった。震災の中で、葬式を勤めながら導師が、真ん中に座っているお坊さんが、おいおい泣きじゃくりながら読経している姿を見たのは初めてでした。また、どちらかというと誰にでも偉そうにしていたお坊さんが、ダウンに着替えて、つるつる頭にタオルを巻いて、若い大学生たちと一緒になって、バケツリレーをしたり、炊き出しをしたり、お風呂の掃除をしたりしている姿を見たのも、恥ずかしながら初めてです。<br /> どこか超然とした、日常のステージとは違うところに居座っていそうなお坊さんたちが、まちの階段の下へ、ふもとへ降りてきて、そしてみんなと一緒に、汗をかきながら、泣きながら、あの現場を共体験していった。これは当時、まだ40歳手前の私にとっては、大変大きな体験であり、それがこの應典院の出発点にもなっています。<br /> もう一つ、非常に尊いものを現場で目撃しました。<br /> 私はボランティアコーディネーターの真似事をやっていまして、当時は臨時的なボランティア拠点みたいなところがあちこちに点在していたんですが、ちょっと所用があって、芦屋の市役所に出向いたとき、驚くような光景に出合いました。ちょうど土曜日だったので、あちこちから集まってきた、いわゆる土日だけの中高年のボランティアたちが役所の中に鈴なりの列をなしていて、「この列は何ですか」と聞くと「それぞれがボランティアの仕事の振り分けで、コーディネーターから指示を受けているんだ」。その順番待ちの列が長蛇の列をなしていたんですね。<br /> きっと、これだけの人を動かしている人は大物で、ボランティアの偉いさんだろうと思って、その列の先頭に行くと、そこに立っていたのは19歳の若い女性でした。19歳のすっぴんの、こう言ったら失礼ですが、まだ学生顔の彼女が、自分の父親、母親ぐらいの年代の人たちに、とても誠実に、また相手の希望をよく聴いて、じつに的確にボランティアの指図をマネジメントしていたという現場を目撃しました。彼女の配下には、それこそちょっとつっぱり風の男の子たちもたくさんいて、芦屋の市役所を拠点に、エリア一帯に救援物資を運んでいる状況も見ました。<br /> それまで日本社会には、大人と子どもとか、メジャーとマイナーとか、まあ、ある意味では、私たちの社会にはある揺るぎない構図があったのですが、目の前にあったものは実に心地よく、その構図をひっくり返すような出来事でもありました。そこには、一つの願いを共にする、世代や立場やキャリアを超えた、人々の新しいつながりを見て取ることができた。それは私にとって鳥肌が立つような、新しい体験でもありました。当時19歳だった彼女は今、34歳。今、どこにいらっしゃるのか、何をされているのか、知りませんけれども、恐らく、その19歳の彼女の姿にダブらせて、何百人、いや何千人、何万人という19歳たちが、あの現場を駆け巡っていたことは、皆どこかでご記憶かと思います。<br />あれから日本の地域社会は音を立てて変わり始めた、と私は実感しています。それまで、教科書の中や地縁的なしがらみの中でしか感じ得なかった「地域」とか「コミュニティ」ということばが、まったく違う輝きを帯びて、私たちの前に立ち上がってきました。そして、地域に暮らすとか、コミュニティに生きるということへの出発点として、あの19歳の彼女が、まっすぐに手を挙げてくれたんだ、ということを、今、振り返ってみてつよく感じさせてもらっています。その頃すでに私は中年の域に達していましたが、何か「よーし、がんばらなあかんな」という気持ちと、「ああ、日本は変わっていくんだな」という、何か無性にこみ上げてくるものを感じて、その原体験が應典院という寺の原点になっています。<br /> もう、名前を忘れてしまいましたけれども、19歳のあなた、本当に、ありがとう。そして、芦屋のあなただけじゃなくって、ここにいらっしゃる方もそうかもしれませんが、あの頃、まだあんまり世の中がよくわかっていなかったと思いますが、なぜか現場をp駆け巡っているうちに、「ああ、ここが私が生きる現場なんだ」と確信して、そこで人生のチャンネルにピタっと来た人、たぶんここに何人かいると思いますが、皆さん、その後、がんばっていますか。あなた方のこれまでとこれからを、ささやかなことしかできませんが、應典院は「支える」、というよりも「一緒に居続けたい」と今も願っています。そして15年、また20年、30年経って、そのころ私がいるかどうかわかりませんが、お寺はあると思いますので、どうか應典院で巡り合った今日の日を、次への中継点にしながら、胸の中で末永く温めていただけたらな、というふうに思っています。<br /> 正面にいらっしゃる仏さまは、浄土宗のご本尊、阿弥陀如来さまです。右に掲げた手は、よく励めよ、という意味、左にさしのべられた手は、よく抱けよ、という意味があります。どんなに傷つけられ、悲しみの淵に立たされても、私たちは誰かとのつながりの中で励むことができる、誰かを抱きしめることができる。そのシンボルとしての仏さまが、今、正面にいらっしゃいます。難しい信仰の話をするわけではないのですが、どうか私たちの記憶の中に、一つの意志としての、決意としてのお姿を、この阿弥陀さまに見てとりながら、今日のこの日を、改めて深く噛みしめていただけたら、ありがたく思います。<br /> 今日は本当にありがとう。お帰りなさい。山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7962904260688716716.post-49058415329242250392010-01-16T23:50:00.000+09:002010-01-17T12:00:43.441+09:00コモンズフェスタ2009/2010 開幕! 本日、コモンズフェスタ2009/2010「U35の実力〜+socialの編集者たち」が開幕いたしました。展示開始時間には、まだ展示構成ができあがっていない、搬入等々の車がガス欠、荷物引き取りの段取りに手間取る、など、バタバタでの開幕でした。スタッフの口から、つい出てきたのは「戦場」ということばです。確かに、とりわけ「時間」との戦いでありました。<br /> 初日にあたる本日は、10時から、サウンドアーティストの中川裕貴さんによる「editing body around the sounds」という企画が2階「気づきの広場」にて行われました。この期間中、花村周寛さんの手によって、墓場を見下ろすロビーは、「公園」に変身(トランス)しております。よって、公園でチェロを弾いている若者、というような風景が成立していました。そうした空間において、中川さんはただ弦楽器の生演奏するだけでなく、楽器を無理やり電気増幅させる「ライブエレクトロニクス」という手法を用い、應典院の外の音(例えば、車の通る音など)を交えて、何とも言えない不思議な時間を生み出していただきました。<br /> その後、17時からは、2006年度より(2回のコモンズフェスタでの開催分は除いて)piaNPOにて展開してきた「ARCトークコンピレーション」のファイナル、30回目が本堂ホールにて開催されました。この催しは、その名のとおり、「コンピレーションアルバム」と言われる音楽CDがあるように、多様な人やテーマをある方針に基づいて1つにまとめるトークイベントとして展開してきたものです。最終回のゲストは、今回のコモンズフェスタでの空間構成を担当いただいている花村周寛さんでした。スライドを使って説明をしたい、という考えもお持ちだったのですが、ここは後にポッドキャストにも音声が乗る、ということで、今回の展示に重ねた「公共性への揺り戻しという問いかけ」について、素の語りをお願いいたしました。<br /> ちなみに、應典院の本堂ホールは、まさに「本堂」という名が含まれているとおり、中央にご本尊がおられます。よって、本堂ホール内での飲食はご遠慮いただいているのですが、今回は「特別」の機会、ということで幕の内にお隠れいただき、花村さんのトーク終了後に過去のゲストの方々と共に歓談と振り返りのパーティーを行いました。秋田光彦住職曰く「感度が高そうな人たちが集まっている」とのこと。今回の内容もまた、ポッドキャストで配信されますので、また<a href="http://www.webarc.jp/arcaudio/">http://www.webarc.jp/arcaudio/</a>をお楽しみください。山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7962904260688716716.post-3195048592349939462010-01-15T17:55:00.005+09:002010-01-16T16:15:55.641+09:00「U35の実力」 いよいよ開幕へ 1/16開幕のコモンズフェスタ2009/2010、会場での仕込みも大詰めとなって参りました。本日は花村さんによる「トランスパブリック」、中川裕貴さんの「editing body around the sounds」、上田假奈代さん・岩淵拓郎さんの「ことばくよう」と、展示・表現系3組の仕込みが行われました。スタッフの機運も急激に高まって来ています。ちなみに、運送屋さんなど、出入りの業者の皆さんにも、新鮮な感動と意外性への驚きを覚えていただいているようです。<br /> そんななか、本日、相次いで3つの新聞記事が出ました。一つめは過日お伝えした毎日新聞の「ことばくよう」の記事です。二つめが、以前主幹の山口が京都新聞から受けた当時の「震災ボランティア」の今に関するインタビューです。そして三つめが奈良日日新聞で主幹が連載しているコラムの三回目として「震災と慈悲」について記したものでした。<br /> これは住職がかねがね仰っているのですが、現代人の新聞離れ、あるいは活字離れが進んでいる中、改めて、新聞というメディアの特性や可能性は何か、というのを、取材、そして掲載を受けて感じました。個人的な印象にすぎませんが、このところ続けている、あるいは続いているTwitterと比較して言うと、「制約」という点に、その問いを解く鍵があるのではないか、と思いました。つまり、Twitterには登録制で140字しか執筆できない制約があるのですが、新聞もまた、毎日発行で紙幅の限りという制約があります。<br /> ただ、Twitterと新聞には、自分が「伝える」側と「伝えていただく側」という圧倒的な違いがあります。そう思うと、新聞の記事と情報欄とコラムと広告は、それぞれにまた意味合いが違うとも考えるところです。もっと言えば、写真の有無、記者の方の署名の有無、さらにはカラーか白黒か、果てにはどこの新聞か、というのも、情報を受け取る側のモードを左右するでしょう。ともあれ、相次いで3つの記事を掲載いただくことになった震災15年の間際、以前は成人式だったこの日。当然のことかもしれませんが、徐々に「あの日」を強く意識するようになってきています。<br /><br /><a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg_foYCrh0hHmgse93tgabs0v1SG9Lpr_rHTW87JIakVbtCnYJP9p8AfYOgr4TgWodHEnUPP0OzsE1hgx4csnk5UVpiU5rdCTz5DcqDmAnqFOukxVwe7SLrCIH2HfzBTDCsJ9XgJsNQzvaG/s1600-h/IMG_2933.JPG"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 240px; height: 320px;" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg_foYCrh0hHmgse93tgabs0v1SG9Lpr_rHTW87JIakVbtCnYJP9p8AfYOgr4TgWodHEnUPP0OzsE1hgx4csnk5UVpiU5rdCTz5DcqDmAnqFOukxVwe7SLrCIH2HfzBTDCsJ9XgJsNQzvaG/s320/IMG_2933.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5427232115494584530" /></a>山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7962904260688716716.post-36254020283192936982010-01-14T23:20:00.000+09:002010-01-15T16:11:37.229+09:00取材から15年前を想い起こす<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjNp9o-y0OaNPbv9uJ5pyzTkZF5bpTq1ZeiNvaVcy-jhvg0pXPzWEYi80ttLCd-ubYHyOie-gGaN33dWCglAkWj-DbwsLVTrvUnDZ2Iv573fTM6Cp1Gd2Y6bDfnku4IiFR5QXoA6NeIXrI/s1600-h/20100117tt57.jpg"><img style="float:right; margin:0 0 10px 10px;cursor:pointer; cursor:hand;width: 146px; height: 200px;" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjNp9o-y0OaNPbv9uJ5pyzTkZF5bpTq1ZeiNvaVcy-jhvg0pXPzWEYi80ttLCd-ubYHyOie-gGaN33dWCglAkWj-DbwsLVTrvUnDZ2Iv573fTM6Cp1Gd2Y6bDfnku4IiFR5QXoA6NeIXrI/s200/20100117tt57.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5426855595155320402" /></a><br /> 本日、読売新聞の記者の方に、1月17日の寺子屋トークに関する取材をいただきました。いよいよ開催が迫ってきたところですが、一人でも多くの方に参加をいただきたいという私の願いと、記者の方の「どんな人がなぜこのような企画を組み立てのか」を知りたいという思いが重なって、2時間弱、取材と撮影をいただきました。途中、ゲストの谷内博史さんにも電話にてコメントをいただいたのですが、さて、いつ、どんなふうに掲載されるのかが楽しみです。<br /><br /> 今回、長時間にわたって取材を受け、取材に対応させていただいたのは、私が震災当時、神戸大学の国際文化学部の避難所でボランティアをさせていただき、記者の方がその体育館に避難をされていた、というつながりがあったためです。まずは先週の木曜日に電話で取材をいただいたのですが、そのとき「なぜこのゲストの組み合わせだったのか」と訪ねられ、私自身の経験も交えてお話したところ、こうした運びとなった次第です。私は1月30日に、まずその避難所に向かい、2月1日から開始を予定としていた立命館大学ボランティア情報交流センターのボランティア受け入れの下見に行き、その後2月1日から1週間ほど現地に滞在して、受付のお手伝いやこどもたちの遊び相手、さらには救援物資の整理等、その場の状況にあわせたお手伝いをさせていただきました。その記者の方は、避難所の受付によく座っておられ、避難所から仕事に行く方が増えてきた頃には、避難されていた特に主婦層の方々の話し相手になったりしておられたそうです。<br /> そんな2人のつながりがあったので、成功談や美談だけでなく、少なくとも私からは失敗談や懺悔の念が出ました。特に、その避難所にいらっしゃって、受付の対応もされていたということもあったので、少し本題から離れ、「ノート事件」とでも言える、ある出来事について、それぞれの印象を語り合うことになりました。簡単に言うと、ある日(私が一旦京都に帰る直前だったので、その避難所で活動して1週間程経つ頃)、ボランティアスタッフの連絡帳として、リレー形式で綴っていたノートを、お手伝いをさせていただいた避難所の受付に置き忘れ、その中身に目を通された避難所の方の怒りを買い、一旦活動の拠点としては撤退をすることになった、という出来事です。若気の至り、と言えばそれまでのことだったのでしょうが、その後、私が「フィールド(現場)」に関わるときには一定の緊張感を持たなければならない、と強く考えるようになったきっかけの一つとなっています。<br /> 「長らく震災から遠ざかっていた気がするのですが、きっと、ずっとあのときのことを携えていくんでしょうね」というのが、私たち2人に共通する「あの日」に対する感情です。そして、恐らく、あの日、あのとき、あの場所に身を置いた人は、それぞれの引き取り方で、<KOBE>のことを引き受けており、今後も引き受けていくのではないかと思っています。ちなみに、例のノートで、被災者の方が怒り心頭に発することになったことばは、「被災者の自立を促す」といったことばが綴られていたことによる、それが本日確認できたことでした。ちょうど、私の恩師の渥美公秀先生がクローズアップ現代に出た日に、こうした取材を受けることになったのも不思議な感じですし、改めて「なぜ、非常時に京都からわざわざ学生が駆けつけ続けたのか」、また「どこかで感謝を求めていなかったか」というようなことを、中田豊一さんの「ボランティア未来論」なども読み返しながら、また振り返ってみたいと思いました。山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7962904260688716716.post-14401948015402661352010-01-13T23:54:00.001+09:002010-01-14T21:06:50.749+09:00コモンズフェスタ「トランス・パブリック」仕込みはじめ いよいよ、コモンズフェスタ2009/2010の期間全体を貫く展示「トランス・パブリック」の仕込みが始まりました。空間構成をいただいているのは、ランドスケープ・デザイナーの花村周寛さんです。これは一目瞭然、なのですが、「道路標識」をモチーフにした展示が、應典院の各所に置かれています。まちのなかで随所に見かける「記号」である道路標識が、應典院というお寺の内部空間へ持ち込まれているのです。<br /> 当初、この企画には、「パブリックモード/プライベートコード」という名前がつけられていました。private codeとは通常は暗証コードを意味するそうです。なぜ、そこに「パブリックモード」という、対比的な概念が合わさったのか。そして、なぜ「トランス・パブリック」という名前になったのか。まずは、以下、花村さんがまとめられたコンセプトをご参照いただければ、と思います。<br /><br /><blockquote>「みんなのため」がパブリックだとすれば、何をすることがみんなのためになるのかがとても見えにくい時代に僕らは社会に出た。そんな僕らは、とてもプライベートな「自分のために」していることをみんなと共有していくことからパブリックを考えようとしているのかもしれない。この空間構成/インスターレションではプライベートとパブリックを反転させたり相互貫入することで 僕らの時代のパブリックを問い直してみたい。街にあふれているパブリックの記号を使って、プライベートな表現をしてみること。あるいはプライベートな行為をパブリックスペースの中に差し込んでいくこと。空間展示だけではなく行動展示なども 交えながらパブリックのコードとプライベートのモードをクロスし、その境界を曖昧にしていくこと。そんな僕らの世代の共有感覚を表現したい。<br /></blockquote><br /> では、なぜ、名前が変わったのか、一言でまとめるなら、花村さんの「こだわり」となるのですが、「トランスパブリック」とした方が、上記のコンセプトを直接表現するものとなるだろう、との判断に至ったためです。実際、本日、應典院2階の「気づきの広場」には人工芝がひかれ、お寺のロビーが「公」園へと「トランス」しました。こうした空間に道路標識のモチーフによって表現された「私的」な情報が展示されていくことによって、「公」と「私」がうまく倒錯していくことになるでしょう。とまあ、ここまで文字で表現しながらも、結果として「百聞は一見しかず」ですので、どうぞ16日から31日まで、パブリックなモードをまとい、少しだけ「異化」された應典院にお越しください。<br /><br /><a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjZZ8UckHHC9FfQCBkoQHy_W7AOTedio56C31Ewb2jHi4dP0RKTmMP5vtGGnpbLafNecc-7TjXDsOD4x8I92f5bqaS9rPdhvf9ZUPd5COOiakVBgJl3uwKuIjlMoNrvsssxS9ic1YA5d9_r/s1600-h/IMG_2921.JPG"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 320px; height: 240px;" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjZZ8UckHHC9FfQCBkoQHy_W7AOTedio56C31Ewb2jHi4dP0RKTmMP5vtGGnpbLafNecc-7TjXDsOD4x8I92f5bqaS9rPdhvf9ZUPd5COOiakVBgJl3uwKuIjlMoNrvsssxS9ic1YA5d9_r/s320/IMG_2921.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5426565747737363282" /></a>山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7962904260688716716.post-56731943629349112762010-01-12T12:18:00.001+09:002010-01-13T11:19:59.758+09:00毎日新聞に取材をいただく コモンズ前のお休みを昨日はいただいて、本日、毎日新聞の記者の方に「ことばくよう」の取材をいただきました。10時くらいから、11時過ぎまで。かなり丁寧に聞き取りをいただき、企画に込めた思いを引き出していただきました。最後には、ぼちぼちと集まってきたお手紙を並べて、写真撮影もしていただきました。さて、どんな記事になるのか、楽しみです。<br /> この「ことばくよう」という企画は、阪神・淡路大震災から15年を迎える今年、その15年という時間の流れに対して、何かできることはないだろうか、という我々からの投げかけです。というのも、昨年度のコモンズフェスタにて行った「詩の学校スペシャル」に、たかとり協会のスタッフの方が来られたのです。ネットで情報を見つけていただいて、当日に直接参加をいただいたのですが、「こうした場があって、自分のことばで震災を語ることができてよかった」というようなことばを遺していかれたのです。その感想が大変印象に残り、改めて、自分のことばで震災を語る場や機会をつくることが、震災から年月が経ったからこそ大切なのではないか、と考えたのです。<br /> あわせて、お寺がことばを集める、あるいはお寺でことばを紡ぐ、これもまた大きな意味があると、得心しつつあります。まさに「駆け込み寺」ではないのですが、お寺にやってきて、なかなか言えなかった思いをことばにすることは、住職が年頭所感で話された「書く」と「打つ」の違いにも通じる意味や価値ではないかと思っています。今回の「ことばくよう」は、そうして、自らが駆け込むのではなく、封書にことばをしたためて思いをお寺に届けて頂こう、というのが狙いです。そして、そうして届けられた思いをきちんと受け取り、気持ちを引き取りたい、という考えから、「展示」と「浄焚」という2つの場を生み出すことにしました。<br /> 何より、「死を悼み」「生を誓う」と、副題に掲げたこともまた、お寺とことばの関連づけをする上で、必要なタイトルだと考えました。誰かが死ぬということは悲しいということ、そして他者と共に生きる上では慈しみにあふれているということ、この当たり前のようで、あまり前には出てこない感情に、今一度光を当ててみたいと思ったのです。もちろん、ここまで書いたものの、まだまだ企画の意図をことばに整理しきれていませんし、企画の意図に対して実施の意義は、それこそ時間が経つごとに厚みを増していくことでしょう。ともあれ、そうした厚みを左右するのは、みなさまから寄せられる手紙であり、それを見に来られた方々の反応であり、その反応の一つとして、展示を見て頂いた上で、その方が手紙を送って頂く、ということになりますので、どうぞ、ご関心、また投函・来場をいただきますよう、お願い申しあげます。<br /><br />--------<br /><br />ことばくよう〜死を悼み、生を誓う4つの物語〜<br />http://commonsfesta.blogspot.com/2009/12/blog-post_2227.html<br /><br />あの日から15年の手紙<br /><br />15年前をふりかえって 自分へおくる手紙<br />15年前に仲良しだったあの人へおくる手紙<br />15年前に 会えなかったあの人へおくる手紙<br />15年前 言えなかったことばをしたためて おくる手紙<br /><br />15年前 たしかに 15歳若かった自分<br />15年前 阪神淡路大震災や オウムの事件のあった<br />15年前 社会がなにかにおびえ始めたことを 肌に感じた<br />15年前 いまはこの世にいない人と 語らったこと<br />15年前 そしていまも生きている自分<br /><br />6000人以上の被害者を出した阪神・淡路大震災から15年。あの日、もしくはあの日から今に至る日々を振り返って、手紙を書くとしたら、あなたは 誰に何を綴りますか。会えなくなってしまったあの人へ、会えなくなってしまった自分へ、そして会ったこともないどこかの誰かへ...。あなたのことば を手紙にして大阪市天王寺区にあるお寺・應典院までお送りください。ご応募いただいたお手紙は、應典院2F「気づきの広場」にて展示させていただ きます。また会期終了後は、みなさんとともに表現を通した参加型のあたらしい「供養」を考え、浄土宗の儀式に則り浄焚していただきます。(個人 特定されないよう、展示の際には配慮させていただきます)<br /><br />○応募期間 1 月 31 日まで <br />○応募方法 封書にてお送りください。文字数、枚数は問いません。<br /> ※差出人のお名前・ご住所は封筒裏面にお書きください。<br /> ○あて先 〒543-0076 大阪府大阪市天王寺区下寺町 1-1-27 應典院寺町倶楽部山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7962904260688716716.post-5391188786245880852010-01-10T23:18:00.001+09:002010-01-12T00:20:32.395+09:00エクソダス2回目〜コモンズフェスタ参加者顔合わせ・交流会 本日は長い一日でした。朝10時からは、コモンズフェスタのプログラムの一つ「エクソダス」の2回目が開催されました。開催中に現場から<a href="http://twitpic.com/xgjmu">Twitterにてつぶやいた</a>とおり、高校生7人、大学生4人、社会人1名の混成チームで、数々のミッションを展開して参りました。應典院に集合した後、黒門市場を一列で歩き抜け、味園ビルの2階を探訪し、NGKの近くのたこ焼き屋さんに並び、ジュンク堂千日前店内から道具屋筋へと通り抜け、電気街と移動しました。そして、日本橋のまちを、巧妙なシナリオで遊びました。<br /> もともと、エクソダスとは旧約聖書にある「出エジプト記」を意味すると共に、そこから転じて大量脱出を指します。多少逆説的となりますが、このエクソダスという企画について、説明させていただきます。そもそも、今回の企画にエクソダスという名は花村さんにつけていただきました。なぜ、その名前が選ばれたかというと、今回の企画が、「まちを遊ぶ」ことを目的にしていたためです。なぜ、「まちを遊ぶ」企画に大量脱出を意味する宗教用語を用いたのか、そこには現代の都市における公共性を考える重要な手がかりがあると考えたためです。<br /> とりわけ都市というものは、多くの人々が暗黙の内に無数のルールに従って生きています。そこで、逆に、小集団かもしれないが、新しいルールをつくり、既存の都市システムとうまく融合させることができれば、都市を遊ぶことができる、と考えました。元ネタは、既に絶版となっている<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/toc/4335550413">粉川哲夫さんの「都市の使い方」という書物</a>(目次はhttp://www.amazon.co.jp/dp/toc/4335550413で見ることができます)です。それをもとに、「私」のしかけから「公」のしくみをゆさぶってみよう、と、多くの人に呼びかけて、既存のシステムを「脱出する」という社会実験に取り組んでいるのが、この「エクソダス」なのです。<br /> 詳しくはまた、別の機会にレポートにまとめますが、日本橋では、空いていない店舗に行列をしてみる、何の変哲もないものに写メをしまくる、韓流スター(とされる)「イ・チュガン」が登場し(たこととして)サイン攻めと写真撮影をねだる、新進アイドルにオタクが群がる、といったミッションを展開してきました。これらの模様は、16日からの「トランス・パブリック」の展示内で紹介させていただく予定です。ちょっとした高揚感をもとに應典院に戻ってから、もろもろ打合せや準備をした後で、18時から、参加者の交流会を行いました。こちらも、<a href="http://twitpic.com/xi2kh">Twitterでつぶやいております</a>が、今回の企画にご縁のある皆さんにお集まりいただき、顔合わせと企画の概要を共有しあいました。山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7962904260688716716.post-46039608177296197142010-01-09T17:45:00.000+09:002010-01-10T17:46:43.609+09:00サリュ・スピリチュアル、発刊。 既に多くの方々の手にわたっているところかもしれませんが、1月10日付で、「サリュ・スピリチュアル」を創刊いたしました。これは、應典院ならびに、その「本寺(ほんでら)」にあたる大蓮寺のまわりで展開されている「スピリチュアリティ」にあふれた取り組みを紹介していく冊子です。A4版で16ページ立てです。冊子の形態で3000部を印刷しています。これまで應典院にご縁のある方の多くには、年賀カードと同送をさせていただいております。<br /> インターネットの時代に、改めて冊子の形態での情報発信に力を入れ、新たな媒体が創刊されるに至った背景には、應典院が持ってきた「活字文化」の再興という意図がありました。二代目主幹が着任して、早いもので5年目を迎えようとしていますが、自省的、自戒的な言い方で恐縮ながら、インターネットやパソコンに長けているはずの人物ながらに、なかなかネット環境における情報発信が活性化しておりません。その一方で、長年、冊子の形態を取ってきた情報誌「サリュ」は、2008年度からは見開きのタブロイド判の新聞のような形態にリニューアルし、一方で発行頻度を高めることにいたしました。これらにより、じっくりとした読み物が、應典院の「ファン層」に届けられていないのではないか、という危惧を住職がなされたためです。<br /> また、冊子の媒体を新創刊した原動力には、かねてより、應典院には、宗教者であるか否かを問わず、霊性に満ちた活動、生気にあふれる人物が集まっているため、そうして貴重な場が生み出されていることに、適切な評価と意味づけを行いたいという考えがあります。ただ、スピリチュアリティということばは、人間の精神的な健康を導く他者の力、というように、個人に消費されるもののように捉えられている傾向があるようにも思えます。とはいえ、本誌「サリュ・スピリチュアル」という名に掲げたスピリチュアリティというのは、そうした物質的な豊かさ、あるいは目の前にいる他人からのことばや行為によってのみ導かれる物事を指しているわけではありません。むしろ、先ほど度から書いているように、ある空間で、ある時間が生まれ、そこに集う人たちどうしで、互いに何かを感じ、語り合う中で生まれる、えもいわれぬことを、何とか文字にしたいという意図があります。<br /> PDF版は<a href="http://idisk.me.com/outenin/Public/20100110salutspirtual01.pdf">http://idisk.me.com/outenin/Public/20100110salutspirtual01.pdf</a>からダウンロードをいただけます。一方で、本誌では、p.13に「YWCA」と記すべきところを「YMCA」としてしまいました。ここに謹んで訂正させていただき、お詫び申しあげます。なお、部数には余裕がありますので、「ぜひ本誌を設置したい」というお考えのある方には、どうぞ、ご連絡をお願いいたします。山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7962904260688716716.post-37387278485764442502010-01-08T17:30:00.002+09:002010-01-09T01:36:27.751+09:00定例会議+10日は<エクソダス>! 毎週金曜日は應典院スタッフによる週間会議をしています。予定の確認、報告事項の共有、協議事項の審議、などを行っています。2006年に私が着任する前からも、同じような会議が重ねられてきたといいます。2006年の10月からは築港ARCプロジェクトが本格化し、新たにチーフディレクターが雇用されていますが、2週間に1回は築港ARCからも本体の会議に参加してもらって、それぞれの現場の状況について理解と関心を深めています。<br /> 時間にして1時間くらいの議論なのですが、毎週定例でなされていることに大きな意味があります。場を持つことによって、「聞いていない」「どこで決まったのか」ということにならないためです。今日の会議は3人でした。それでも、コモンズフェスタの会期を間近に控え、細かくも重要な事柄について意見交換がなされました。<br /> とりわけ、昨日の催しに、若者たちが多く集まったことを受け、「U35の実力」というテーマを据えたことの意味、そしてそれらの企画の趣旨について、改めて確認をしました。そして、ブログやTwtterの活用(例えば、ハッシュタグの意味)について、それぞれの理解を深めたりもしました。なお、今後、コモンズフェスタのブログでは、スタッフによる「事務局レポート」を掲載していくことも決めました。さらには、会期中は20時までが展示時間なので、消灯の当番の割り振りも行われました。<br /> 通常、週間会議は朝の10時から行っているものの、本日は変則で16時からでした。午前中は昨日の片付けや決算の作成、また、メール上での告知や申し込みへの返信などに充てていました。その中で、ある新聞記者の方から、「今宮戎神社ですか?」という間違い電話が2回ほどかかってきました。恐らく、メモリの選び違いの間違い電話で、10日えびすについての問い合わせだと思われるのですが、「こっちはコモンズフェスタをやってます、10日は<エクソダス>という企画があります!」とアピールをする前に、あえなく切られてしましました。<br /><br /><hr /><br /><br /><div style="text-align: center;"><span class="Apple-style-span" style="font-size:large;">エクソダス参加者募集</span></div><div style="text-align: center;"><br /></div><div style="text-align: center;"><a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://pds.exblog.jp/pds/1/200912/13/12/a0091712_213499.jpg" style="text-decoration: none;"><br /></a></div><div style="text-align: center;"><span class="Apple-style-span" style="color:#551A8B;"><span class="Apple-style-span" style="color: rgb(0, 0, 0); "><a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgcuh40kbEwOlmhH3RNfEQQq49sjotKBL7i90u-KvxSGSkQgONgUjMivpEmvQXjYlpINF-WyqOXzkt0FVU4967LayW8t5nazCcZUFTozpTgJx_cYBMlZH919Wh5NRZ05ncVdMxkG_xCATf1/s1600-h/%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%80%E3%82%B9.jpg"><img src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgcuh40kbEwOlmhH3RNfEQQq49sjotKBL7i90u-KvxSGSkQgONgUjMivpEmvQXjYlpINF-WyqOXzkt0FVU4967LayW8t5nazCcZUFTozpTgJx_cYBMlZH919Wh5NRZ05ncVdMxkG_xCATf1/s320/%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%80%E3%82%B9.jpg" border="0" alt="" id="BLOGGER_PHOTO_ID_5424408383038838898" style="display: block; margin-top: 0px; margin-right: auto; margin-bottom: 10px; margin-left: auto; text-align: center; cursor: pointer; width: 226px; height: 320px; " /></a></span></span></div><br /> 應典院で行われる「コモンズフェスタ」 の行動展示の一環として、大阪市内で 参加型パフォーマンス “エクソダス” を行います。<br />エクソダスは集団で移動しながら街の 各所で違和感を起こすパフォーマンス で、どなたでも参加する事が出来ます。<br />日常を脱出した視座から都市を眺め、 実験的/実践的に都市に関わるパ フォーマンスとして行われるエクソダスは、都市で見る日々の人々の行為を 極端に増幅したり、法制度がもたらす 風景の限界に挑んだり、システムを徹 底的に利活用したり、集団で演劇的に 都市に関わりながら私たちが日々何を 共有していて、何がタブーとされてい るのかを浮き彫りにします。<br />都市を使 いこなしながら、状況をデザインして いくことを目指すエクソダスにあなた も参加しませんか?<br /><br />日時<br />12月18日(金) 13:30~<br />1月10日(日) 10:00~<br />1月18日(月) 06:00~ / 19:00~<br />1月22日(金) 13:30~<br />1月30日(土) 10:00~<br /><br />場所<br />應典院 1F ロビー集合。 その後市内各所へ移動します。<br />(交通費は参加者負担)<br /><br /><br />参加費無料、完全予約制。 参加希望の方は、以下のメールに 予約を入れて下さい。<br />arc@outenin.com<br /><br />主催:應典院寺町倶楽部/トランスパブリック山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7962904260688716716.post-63932864495866590082010-01-07T23:17:00.001+09:002010-01-08T02:22:52.153+09:00西村佳哲さんで、コモンズの幕が開く。 本日、コモンズフェスタ2009/2010のプレトーク、無事終了いたしました。参加者は39名。本来は30名のところ、遠くは岡山からお見えになった方や、キャンセル待ちで当日お越しいただいた方まど、熱心な方々の姿勢には、主催者冥利につきる、と感じてしまいました。感謝いたします。<br /> その内容については、應典院のTwitterアカウントでは初となる「中継」をさせていただきました。既に、應典院主幹(山口)は、11月7日の全国アートNPOフォーラムの第3分科会(<a href="http://twilog.org/nposchool/hashtags-anf09c/asc">#anf09c</a>)や11月アートNPOミックス(<a href="http://twilog.org/nposchool/hashtags-artnpomix/asc">#artnpomix</a>)にて、手探りながら感触を得ていました。そこで、今回はコモンズフェスタ全体に対して <a href="http://twilog.org/outenin/hashtags-commonsfesta/asc">#commonsfesta</a>というハッシュタグ(なるもの)をつくり、実況中継をさせていただきました。ハッシュタグについて説明すると長くなってしまうのですが、さしずめ「Twitter」の世界で、同じ事柄についてつぶやきあう上での共通キーワードと捉えていただければ、と思います。<br /> ともあれ、<a href="http://twilog.org/outenin/date-100107/asc">西村佳哲さんのお話と、参加者の皆さんとの対話を中継</a>をさせていただいて改めて感じたのは、「間」の大切さ、です。とりわけ應典院は活字をはじめ、文字で物事を表現することに慣れてきているのですが、そうして感情よりも思考が優先されてしまえば、どこかで、その場を取り繕う類の発言を繰り返してしまうことがあります。当初はそれが嘘ではありませんが、一度言ったことと現実とが微妙に異なるとき、それをつぶやいたことを現実化しなければならないというプレッシャーに責めさいなまれることになります。こうした、人、もの、こと、それらとの向き合い方について、西村さんのお人柄を「中継」をさせていただくレポーターの立場から、深く感じ入っていた次第です。<br /> 本日の「プレ」トークをもって、いよいよ今年度のコモンズフェスタが開催の運びとなります。初日である16日も、かなり多くの催しが盛り込まれておりますが、17日には私が企画をいたしました<a href="http://uemachi.cotocoto.jp/event/36407">寺子屋トーク第57回「+socialの編集者たちが語る・思いをつなぐしくみ・地域に根ざすしかけ」</a> が開催されます。以下、テキスト版のご案内を貼り付けさせていただきますので、どうぞ幅広い方々のご関心、ご参加をお待ちしております。また、本日の模様は、依頼をさせていただいた「モニターレポーター」の方々のコメントとして、<a href="http://commonsfesta.blogspot.com">コモンズフェスタ特設ブログ</a>において、それぞれの形で報告させて頂く予定です。<br /><br /><br /><div style="text-align: left;"><阪神・淡路大震災15年・特別企画></div><div style="text-align: left;">應典院寺町倶楽部・主催 「寺子屋トーク第57回」</div><div style="text-align: left;">◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇</div><div style="text-align: left;"> +socialの編集者たちが語る</div><div style="text-align: left;">〜思いをつなぐしくみ・地域に根ざすしかけ〜</div><div style="text-align: left;">◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇</div><div style="text-align: left;"><br /></div>1995年1月17日、あの日。<br />わたしの人生は変わっていった。<br />ー震災世代の4人が語る、社会の「リ・デザイン」。<br /><br /><趣旨><br />「現代の寺子屋」として、本堂を学び・気づき・遊びの空間に提供されている應典院。阪神・淡路大震災から15年を迎えるその日、震災当時に学生であった4人が、今、現場で得た学び、気づきをどのように活かしているのかを語り合います。全国と京都でそれぞれ「お金の流れ」を考えている二人、それぞれの地域で市民の社会参加の枠組みを追究している二人、2つの対談を経て、ご来場の皆さんと共に、よりよい社会をデザインする「+Socialな編集術」を考えます。佐藤大吾×深尾昌峰セッションでは「お金の流れと志のつながり」に、谷内博史×いなむら和美セッションでは「地域の<見える化>と市民の底力」に、それぞれ焦点を当てていきます。<br />【会場前には30分程度、震災の物故者の追悼法要が行われる予定です(12時半開始予定)】<br /><br /><内容><br />13:00 開場<br />13:30 開会<br />13:35 対談 1 佐藤大吾 × 深尾昌峰<br />14:35 対談 2 谷内博史 × いなむら和美<br />15:35 休憩<br />15:45 パネルディスカッション<br /> 進行:山口 洋典(應典院寺町倶楽部)<br />16:30 終了(ワンコイン交流会開催)<br /><br /><ゲストの横顔><br />佐藤大吾(特定非営利活動法人チャリティ・プラットフォーム理事長)<br />73年大阪生まれ。大阪大学中退。企業へのインターンシップ事業、商工会議所主催「段取り力検定」を立ち上げるなど、一貫してキャリア教育事業に携わる。98年、議員事務所でのインターンシップを運営するNPO法人ドットジェイピーを設立。累積約9000人の学生参加のうち、25人が議員として活躍。ヤフー、楽天と政治サイトの運営も行い、政治のIT化活動にも注力。07年、NPOを財政面から支援するNPO、チャリティ・プラットフォームを設立。<br /><br />深尾昌峰(公益財団法人京都地域創造基金理事長)<br />公益財団法人京都地域創造基金理事長。74年京都生まれ。滋賀大学在学中に震災ボランティア活動に従事。97年10月から特定非営利活動法人きょうとNPOセンター設立構想に参加し、98年より09年12月まで事務局長。01年からは日本で初めてのNPO法人放送局京都コミュニティ放送(京都三条ラジオカフェ)事務局長も兼務。また03年から07年までは京都市市民活動総合センター長も兼務。09年3月、同センター10周年事業で設立した基金の理事長に。<br /><br />谷内博史(七尾市企画政策部企画経営課地域づくり協働推進室まちづくりコーディネーター)<br />七尾市企画政策部企画経営課地域づくり協働推進室まちづくりコーディネーター。71年広島生まれ。震災当時、立命館大学ボランティア情報交流センター代表を務める。その後、滋賀県の草津での地域通貨、奈良を中心にしたコミュニティ・シンクタンクの展開等に取り組み、03年より石川県七尾市にてまちづくり会社で官民協働シンクタンクの運営、まちづくり人材の育成に取り組む。09年より現職で、市民税1%を原資とした市民のまちづくり提案公募協働事業を担当。<br /><br />いなむら和美(兵庫県議会議員)<br />兵庫県議会議員(無所属・市民派)尼崎市選出。72年兵庫生まれ。神戸大学法学部在学中、阪神・淡路大震災に。その後、学内の避難所で学童保育のボランティア活動に取り組み、神戸大学総合ボランティアセンターを設立、初代代表に。被災者支援の政策提言活動にも取り組む。神戸大学大学院法学研究科修士課程修了後、証券会社勤務を経て03年、兵庫県会議員選挙に尼崎選挙区から立候補し、当選。活動内容は、インターネットの公式サイトwww.inamura-kazumi.comにて。<br /><br /><開催概要><br />○日時 1月17日(日) 13:30〜16:30<br />○参加費 一般 1500円 学生 1200円<br /> 阪神・淡路大震災で被災された方は無料招待(受付にてお申し出ください)<br />○定員 80名(予約優先制)<br />○お申し込みサイト「上町台地.cotocoto」の専用フォームをお使いください。<br />http://uemachi.cotocoto.jp/event/36407<br />【インターネット環境にない方には、以下の事務局までご連絡ください】<br /><br /><問い合わせ先><br />應典院寺町倶楽部<br />〒543-0076<br />大阪市天王寺区下寺町1-1-27<br />TEL:06-6771-7641<br />FAX:06-6770-3147<br />info@outenin.com<br /><br />----------------------------------------<br />※本事業は、應典院の総合芸術文化祭「コモンズフェスタ」の参加事業です。今年のテーマは「U35の実力」。1/16〜31にかけて、大小18の企画が開催されます。詳細は、特設ブログ:http://commonsfesta.blogspot.comにて。山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7962904260688716716.post-4509724310863091462010-01-06T23:29:00.004+09:002010-01-06T23:43:41.461+09:001/7、コモンズフェスタのプレトークで西村佳哲さんが! このブログを読んでいる方にはご承知いただいていると思われるのですが、1/16から31にかけて「コモンズフェスタ」が開催されます。既に12/18には、お試し企画として<a href="http://innerscape.exblog.jp/9418353/">「エクソダス」</a>の第1回目が開催されております。そして、1/7(このブログを書いているときには「明日」)、プレトークと題したトークサロンが開催されます。詳細は以下に貼り付けさせていただきました。<br /> コモンズフェスタとは、劇場寺院と銘打つ應典院にて、1998年から開催されているNPOとアートの総合芸術文化祭です。1997年に再建された鉄とガラスとコンクリートのモダンな空間が、それぞれの創意工夫によって多彩に彩られます。2006年までは10月から11月にかけて開催されてきたものの、2007年からは会期を1月に移行しました。<br /> 毎年、それぞれにテーマを設定させていただいてきておりますが、今年は震災15年ということもあって、それにちなんだ企画によって組み立てられております。ずばり、そのテーマとは「U35の実力〜+socialの編集者たち」です。これと震災がどう絡むのか、と思う方もいらっしゃるでしょう。これは、震災15年、当時はまだ社会に出ていなかった(例えば、学生であった)若者たちが、今、社会をどのように「リデザイン(再設計、再構想)」しているかに観点を向けた、という意図があります。<br /> 大小18の企画が皆さんのお越しをお待ちしております。取り組みの内容については、今後、應典院のコモンズフェスタ特設ブログ<a href="http://commonsfesta.blogspot.com">http://commonsfesta.blogspot.com</a>でご紹介させていただく予定です。ともあれ、明日、1月7日にはプレ企画として、『自分の仕事をつくる』(ちくま文庫)で著名な西村佳哲さんをお招きしたトークイベントを開催いたします。その他、17日には震災ボランティアの経験から兵庫県議会議員(無所属・市民派)となったいなむら和美さんや、京都地域創造基金の深尾昌峰理事長、チャリティープラットフォームの理事長を務める佐藤大吾さん、また石川県七尾市で「でか小屋」と呼ばれる芝居小屋を再生する活動などに取り組んでいる谷内博史さんなどをお招きした「寺子屋トーク」の開催します。そのほか、お寺を拠点にした催しならではの「ことばくよう」、さらには本堂に「仮想」で「理想」のまちを「仮設」する「ミニ★シティ」など、多彩な企画で皆様のご来場をお待ちしております!<br /><br /><br />〈以下転送歓迎〉<br /> <br />トーク「自分をいかして生きる〜西村佳哲さんと〈仕事〉を語る」<br /> <br /> 人は「何のために働くのか、自分は何がしたいのか、できるのか。自己と現実の仕事の狭間で苦悩する人は多い。人々の雇用が大きく揺らぐ現代、改めて「働くことの意味」を考えるライブトーク。世界中の職業人から聞き書きした、ロングセラー「自分の仕事をつくる」「自分をいかして生きる」などの著書で知られる西村佳哲さんとともに語りあう2時間。現場と人から学んだ「仕事を生きる哲学」を聴きます。<br /> <br />ゲスト:西村佳哲さん(働き方研究家)<br /> <br />○日時 1月7日(木) 19:00〜21:00<br />○参加費 500円<br />○定員 30名<br />○会場 應典院1階研修室 (天王寺区下寺町1−1−27)<br /> *地下鉄谷町9丁目から西へ、日本橋駅から東へ徒歩7分<br />○お申し込み 「上町台地.cotocoto」 <br /> <a href="http://uemachi.cotocoto.jp/event/36404">http://uemachi.cotocoto.jp/event/36404</a><br /> 應典院寺町倶楽部 FAX(06-6770-3147)、電話(06-6771-7641)<br /> <br />★西村さんの本4冊!(Amazon)<br /><a href="http://bit.ly/79YNEk">http://bit.ly/79YNEk<br /></a> <br />☆最新刊「自分の仕事を考える3日間」は当日会場でも販売します。サインあり!<br /><p>山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7962904260688716716.post-22065042012239744802010-01-05T23:54:00.003+09:002010-01-06T00:04:52.834+09:00應典院より年頭のご挨拶:「責任」ということ 謹賀新年、今年もよろしくお願いいたします。應典院のトップページからはリンクが見えないという、應典院の裏面を記しているようなブログです。だからと言って、更新の頻度が落ちてはならないのでしょうが、昨年は末に近づくについれ「コモンズフェスタ」の準備等でてんてこまいとなり、書く、ということがおそろかになってしまいました。もちろん、何らかの書き物は重ねてきていたので、おそろかになってしまったのは、伝えること、あるいは届けること、もしくは自らの歩みを振り返ることだったのかもしれません。<br /> そんななか、本日、1月5日、應典院は仕事始めでした。ついては朝9時から、恒例の秋田光彦代表による法話がなされました。そのお話が、私(山口)が直面している課題、あるいは壁、それそのものであったと感じ入っておりました。iPhoneで録音をしたものから文字にしましたので、精確には「テープ起こし」ではないのですが、特に前半部分、つまりは「抱負」の前までのところについて、皆様と共有させていただければ、と思います。実はただいまウェブサイトのリニューアル計画を構想、設計中でして、こうした書き物、綴り物は、今後、「コラム」的に、随時発表していく予定です。<br /> ともあれ、應典院から皆様への年頭のご挨拶の意味も込めて、以下、代表のお話を掲載させていただきます。一部、話しことばの言い回しを尊重した箇所があるため、文意がわかりにくくなってしまっているところがあるかもしれません。場合によっては随時修正させていただくことがありますので、ご承知置きくださいませ。ということで、また、ちょこちょこと覗いていただければうれしく思います。<br /> どうぞ、今年一年も、よろしくお願いいたします。なお、このブログとは別に、秋田代表と協力者の浦嶋さんによる生と死を考えるブログ「<a href="http://mitoribito.blogspot.com">みとりびとは、いく</a>(http://mitoribito.blogspot.com)」、さらには應典院におけるアートとNPOの総合芸術文化祭「<a href="http://commonsfesta.blogspot.com">コモンズフェスタ</a>(http://commonsfesta.blogspot.com)」なども運用しております。どうぞ、あわせてお見知り置き願います。<br /><br />------------<br /><br /> あけましておめでとうございます。旧年中はお世話になりました。どうぞ今年もよろしくお願いいたします。<br /> どんなお正月を迎えられたでしょうか?私は原稿三昧でしたが、それぞれに家族や友人と親睦を深められたと思います。同時に、この一年をどういう一年でありたいか、ということを胸にしたのではないでしょうか?毎日が元旦だったら、よし、今日は頑張るぞ、という気持ちになりますが、その気持ちをなるべく持続できるように頑張って頂きたいと思っています。<br /> 年始にあたって、今日は責任ということについてお話をします。お正月のあいだ、ある作家のエッセイをパラパラっと見ていましたら、おもしろいことが書いてありました。「日本語は打つのではなく、書くのだ」と。この「打つ」というのは当然キーボードのことです。今、ほとんどの日本語は打つものであり、横書きになってしまっている。けれども、その方は書家の方ということもあって、あくまで日本語は手書きで縦に書くものだ、ということを非常に強調しておられました。<br /> 特にインターネットやメールを多用する私たちです。これは皆さん、自覚されていると思いますが、私たちはメールを打つとき、インターネットをするときに、自分自身の存在に匿名感を持ったりします。自分が誰か、という自覚が薄れることを経験されたことはないでしょうか?例えば、よくある脅迫メールや、中学生たちのチェーンメールなどは、匿名で相手を攻撃するものです。昔はそういう手紙がなかったわけではありませんけれども、「インターネットの時代には非常に顕著なのは、インターネットの中に横溢している日本語には責任がない」というふうに、その先生は書かれておられました。<br /> 例えば、「お前、殺すぞ」と、手で書こうと思うと、「殺すぞ」と書くまでに、いろんなブレーキが入って、それを抑制するのではないでしょうか。脳が働いて、手の筋肉が反応しながら、こんなことは書いてはいけない、と自分を抑えようとしする、自制のコントロールが働くのではないでしょうか。しかし、キーボードでは「殺すぞ」と打ってしまう。その先生は、横書きで打つ日本語では絶えずある種の軽薄さはらんでいると警鐘を鳴らしているのです。<br /> もちろん、今更鉛筆を持って、マス目を一個一個埋めながら書くということは、私などは完全にできませんけれども、この話から改めて感じたことは、大事なことは打つのか書くのかという行為の性質だけではなく、自分の書いたことや言ったことに対して、どれだけきちんと責任を取るか、ということではないかということです。匿名性の問題というのは、絶えず責任の欠落ということとセットになっています。特に怖いのは、責任の主体である「私」が、匿名の透明の人間になってしまって、自分ではない自分がここにいて、何でもできるような全能感にあふれてしまって、自分というものの実態とは違う存在になってしまうことです。<br /> 平野啓一郎という作家の『ドーン』という小説を読みましたけれども、大変面白かったです。彼はそういうことをメッセージとして言いたいのでしょう。今、この時代を生きている私たちは、生まれながらにして多重人格を兼ね備えている、と書いています。昔は多重性というと、ものすごく可能性があるように思いましたが、多重な自分の中のどこに自分の実態があるのかがわからなくなってしまっているという近未来を書いた小説です。<br /> 責任ということばは、英語ではresponsibilityと言い、応答という意味を持ちます。日本人が「責任を感じる」と言うときの責任というのは、何か上から一方的に指示されて、「責任を取れ」というような感じの問われ方がなされることがあるので、責任というのは重苦しくって、縛りが強いものと感じがちです。しかし、英語の文化圏での概念では、責任は応答を意味します。つまり、responsibilityということばから考えると、まわりの人たちは私に呼びかけてくれている、まわりの人たちは私たちに応えてくれているという具合に、まわりの人たちに呼びかけ、呼びかけれる中で、互いの存在を確かめ合う宛先になることが責任なのだ、ということになります。<br /> 我々の職場というのは、非常にことばが多い世界です。私も元々ことばが多い方です。しかし、それらのことばに特徴的なのは、極めて観念語、観念的なことばが多いということです。あるいは理想語と言ってもいいかもしれません。「こうあればいいな」ということを、すぐにことばにしてしまえるという、非常にいいポジションにいると言ってもいいかもしれません。教育が、アートが、宗教が、あまり現実を語りすぎたら、現実の見にくい部分を語ってしまうと、教育、アート、宗教ではなくなってしまいます。だからこそ私たちは、非常に美しい観念語を語りがちです。市民社会ということばも含めて。<br /> しかし、もう一度、私たちが謙虚に振り返らなければならないのは、私たちは本当にその美しいことばに責任を持っているだろうか、ということです。そのことを改めて再確認したいと思います。我々の行っている教育やアートや宗教というのは、人間の実存に関わる仕事です。簡単に言えば、人間の生と死に非常に接近しがちなポジションに私たちはいるわけです。その私たちが発することばというのは、ことばの巧みさや、ことばの多い少ないのみならず、そのことばが持っている深い定位にある意味そのものを、実は相手の方はくみ取ろうとされているのではないか、ということを肝に銘じた方がよいと思っています。<br /> 私たちはことばは情報でありツールである、というふうに受け止めがちですが、私はそうではないと思うんです。もちろん、情報でありツールであるんですが、その向こう側には、ことばというものが持っている、深い厚み、人格そのものをあらわす、深い色合いがことばの定位には蓄えられていると思っています。それは意味以前の話です。<br /> 私はこの職場で繰り返し「価値をつくろう」ということを言ってきましたが、これは実に大それたことなんです。そう簡単には実は言ってはいけないことなんです。価値っていったい誰が価値と決めるんだ、一人で良いことを言って「これが理想だ」と言ったとしても、それはその人のわがままで、好きなことを言っているだけで、それは価値とは言いません。では、日本人全体があることを知ってもらったら価値になるのか、と言えば、それはテレビのバラエティーにでも出ない限り、たぶんできないでしょう。つまり今日、価値というものの価値づけそのものも、非常に難しくなってきている時代であると思っています。<br /> ただ、私は価値をつくろうという夢や企みは、決して忘れたくありません。しかし、価値をつくるということに対する畏れ、また価値を届けるということの責任、このことは私たちは深く、肝に銘じないといけないと思っています。<br /> 恐らく、多くの人たちは、この空間の持っている、ある種の精神性に対して、多くの人はリスペクトの気持ちを持ってやってきます。そのリスペクトを、間違っても、俺たちがやっていることがすごいから、ではなく、私たち一人ひとりの責任として受け止めながら、何を返していくのか。自分たちの存在に対して応答してくださっている皆さんにふさわしいことばや行いに対して、どうことばや行いを返していけばいいのか、その一つひとつに誠実であって欲しい、一つひとつに気持ちを込めてもらいたい、それがまず私たちの果たすことができる責任への第一歩だと思っています。そういうことを重ねていくと、自ずと教わっていくんですよ。そういうときに、ああ、責任というのは、決して誰かから押しつけられた負荷ではなく、私たち一人ひとりの中に輝きを保つ使命みたいなものだ、ということに気づいてもらえれば、と思っています。<br />(後略)山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7962904260688716716.post-25650837341394326512009-10-25T20:45:00.003+09:002009-10-26T09:17:54.732+09:00ミジンコターボ「お母さんはゾーマ」を観劇 ミジンコターボの『お母さんがゾーマ!!』、千秋楽を鑑賞させていただきました。既に記させていただいたとおり、今回はペシャワール会の伊藤和也さんの追悼写真展開催中の公演ということもあり、仕込み日に行われる恒例の秋田光彦住職による講話が、いつもより長めでした。実際、劇団員の皆さんの多くに写真展の鑑賞もいただきました。一方で、ペシャワール会の皆さんにも、公演の円滑な運営への協力をいただきましたこと、謹んでお礼申し上げます。<br /> さて、今回の公演はタイトルを見て、あるいはフライヤーを見て、「わかる人はわかる」のですが、ドラゴンクエストというゲームをモチーフにした作品でした。妄想癖という表現を使ってしまっては元も子もないのですが、いわゆる「教育ママ」を大魔王(ドラクエ3の最終ボス「ゾーマ」)に見立て、魔王と王様の諍いを母と父の子育て方針の対立として取り扱ったというものです。そして、そのはざまに立たされるこどもが、自らが成長していく様を、ちょうど「ドラクエ」の勇者に重ねた、という具合でした。偶然にも、前週に公演をいただいたオリゴ党の皆さんの作品もまた冒険ものだった、と思い起こした次第です。<br /> ゲームの世界観を見事なくらい現実世界の葛藤にシンクロさせた脚本も印象的でしたが、その名のとおりに物語に抑揚、緩急、そうした変化を導いた役者さんたちの表現力に感服しました。とりわけ、弘中さんのダンスは、昨年のspace×dramaの特別招致公演「スーパーソニックジェットガール」での圧倒的なパフォーマンスを越えるもので、それゆえに私だけでなく鑑賞された方から自ずと拍手が生まれたのだと確信しています。また、いつものように力の入った宣伝美術もさることながら、入り口での幟、充実した物販、そしてエスプリのきいた前説、さらには映像を効果的に用いた「つかみ」と、劇団として随所に散りばめられた創意工夫に圧巻でした。さらに、これは個人的な感想ですが、山口いずみさん演じるお母さん&ゾーマの「セリフの二重性」に、劇創ト社の「ラジオスターの悲劇 3rdセッション」での「God Only Knows」のタロ役を思い起こしました(だからと言って、人間以外の役がすごい、という訳ではなく、堂々たるボスキャラのセリフと母の愛とを絶妙に演じきったという意味です…)。<br /> 惜しむらくは、役者の皆さんの声が少し聞き取りにくかったということです。座った位置によるのかもしれませんが、片岡百萬両さん演じるチャゲが、ご本人曰く「ドラクエではプレーヤーが操る勇者は<はい>と<いいえ>の選択をするしかなく、セリフがない」という理由で全く発声をしないという設定であったので、ぜひ、南雲飛鳥さん演じるアスカの声は、全編にわたってクリアに届いていて欲しかった、と思いました。ともあれ、キャストと役名と、そしてセリフ(チャゲ&飛鳥『SAY YES』へのオマージュ)、さらには客入れの音楽(『PRIDE』)など、メタなレベルで意味を重ねてくる意図も含め、充分に楽しませていただきました。ただし、過去の公演を拝見すると、私はショートショート(いわゆる番外公演)しか鑑賞させていただいていないことに気づいたので、2009年1月21日~24日のHEPホールでの次回公演「ダメダメサーカス」(の再演)には、必ずお伺いさせていただこうと決意いたしました。山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7962904260688716716.post-70570610347591676552009-10-22T16:11:00.004+09:002009-10-22T16:43:51.388+09:00ペシャワール会「伊藤和也さん」追悼写真展開催中 10月20日より25日まで、應典院の2階「気づきの広場」では、ペシャワール会の皆さんによる「伊藤和也さん」追悼写真展が開催されています。この写真展は、2008年8月、アフガニスタンの復興支援のために農業指導の活動に取り組む中、31歳の若さでこの世を去った伊藤さんの遺作展です。ご承知の方も多いと思うのですが、アフガニスタンなど、イスラムの国では、外国人が女性やこどもを撮影することが問題となることがあります。しかし、石風社から刊行されている「アフガニスタンの大地とともに―伊藤和也遺稿・追悼文集」の写真からもお感じいただけるように、現地の方々と伊藤さんとのあいだで親密な関係が築かれていたかは明らかです。<br /> 今回のご縁は、應典院の2階にある「カウンセリングルーム」で取り組まれている、箱庭療法の勉強会に参加されている方からの打診がきっかけとなりました。常々、多くの呼びかけに応えていくことこそ、應典院の役割だと考えていることもあって、断る理由はまったくありませんでした。しかし、それ以上に、ぜひ應典院で、と考えた個人的な理由として、伊藤さんが静岡県の掛川市出身だということがあります。というのも、私(山口)が、同じく静岡県、しかも同じ西部地区の磐田市出身であったためです。<br /><br /><a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEib4rKslbcPe2bWg4SqcYi9bouG3RFedWRVXtHeHQwl-45KOHUvRPlHAqKDPTSCNn-gDdwEEZO7r8L4-ZNMrxTJhw7s521xuff69sisQA49roipzgG4tenaWdn1PiQiG3fOZ9oFReKkM_v0/s1600-h/IMG_7098.JPG"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 320px; height: 214px;" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEib4rKslbcPe2bWg4SqcYi9bouG3RFedWRVXtHeHQwl-45KOHUvRPlHAqKDPTSCNn-gDdwEEZO7r8L4-ZNMrxTJhw7s521xuff69sisQA49roipzgG4tenaWdn1PiQiG3fOZ9oFReKkM_v0/s320/IMG_7098.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5395326637709553394" /></a><br /><br /> 昨日はご両親も静岡から来られました。2階のロビーに据えられたベンチに、ご夫婦で静かにたたずんでいらっしゃったところに、ご挨拶をさせていただきました。静かな物腰で、そして穏やかにお話をされる口調に、ふるさとの感覚を思い起こしました。そして、Twitterにも記させていただいたとおり、應典院の本寺にあたる大蓮寺の墓地にある、中田厚仁さんのお墓をお参りされてからお帰りになられました。<br /><br /><a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEijSPLLe2uLULALjw1mtt3Qc0A-IP8F5USyJ8B2hhuAhSF32DCGHgWh0djz57wKm-ATvYAM2ot9Egjum0NyQ6uxPx2c_7hnUY7ygzcqIh70xMO_qVzqqtSS_t7eiQ0cU9o9Mi5ENgWZt2fd/s1600-h/IMG_7101.JPG"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 214px; height: 320px;" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEijSPLLe2uLULALjw1mtt3Qc0A-IP8F5USyJ8B2hhuAhSF32DCGHgWh0djz57wKm-ATvYAM2ot9Egjum0NyQ6uxPx2c_7hnUY7ygzcqIh70xMO_qVzqqtSS_t7eiQ0cU9o9Mi5ENgWZt2fd/s320/IMG_7101.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5395326787230380242" /></a><br /><br /> そのお話を住職にさせていただいたところ、本日の朝、恒例となっている劇団の仕込み初日に行っております講話のなかで、伊藤さんについて、また写真展について触れられました。以下、私(山口)の視点でまとめさせていただきました。もしよろしければ、伊藤さんの死を悼み、またそれぞれの生を見つめ直すきっかけとなれば、と思っています。写真展は25日までですので、どうぞ、お時間をつくっていただいて、應典院までお越しいただけることを願っております。<br /><br />*なお、途中の引用等は、文字表現が不確実な部分がありますので、加筆修正が入る可能性があることをご承知置きください。<br /><br />-------------<br /><br /> あまりこのお寺では布教をしないと言っているですが、今日は仏さんのお話をしますね。特に、仏教という教えの中では、生きるということと死ぬということは分けて考えていない、ということについてです。恐らく私たちはどこかで「死んだら終わり」であったり「死んだ人はかわいそう」と思うことがありませんか。だとすれば、それは生のおごりです。<br /> 死者は何も声を出しません。ですので、死というものの前にすると、生は謙虚さを失ってしまいます。 また、死に対するイメージがどんどん失われていくと、生はどんどん萎えていきます。生の権力の中に私たちも支配されてしまうのです。<br /> 仏教では、生と死は、一つの大きな輪の中に入っていると捉えます。その輪の中にたまたま時間を区切る線が真ん中のあたりに入っている、と考えます。そして、こちらが生、こちらが死という具合になっているところを、輪の中の領域が円運動を起こして回っていきます。<br /> 生きている時間と死んでいる時間は、一つの共通した時間軸の中にあるのですが、私たちはそのことに気づきにくく、そして気づいても忘れがちです。例えば、ものを買ってくれるのは生きている人だけですし、がんばれがんばれと言ってがんばってくれるのも生きている人です。一方で死んだ人にがんばれがんばれと言っても何も応えてくれません。だから、私たちは死んでしまうと語りかけることをやめてしまいます。ところが、昔の人は死者にたくさん語っていました。死者にいろんな思いを届けていました。けれども、だんだんだんだんそれが萎えてしまい、忘れ去られてしまったのです。結局、現実的に、私たちは生きている時間の中だけでしか生きていない、と考えるのです。<br /> ただ、時々は死は私たちの身近にやってきます。まるで「ほい」と肩を叩いてくるような感じ、びっくりすることがあります。例えば、愛する人が亡くなったときです。皆さんのお父さんやお母さん、こどもたち、例えばそういう方が亡くなったとすると、はじめのあいだはものすごい悲嘆にくれるのですが、そのうちに、なんで僕は生きているんだろう、というような問いがじわっとこみ上げてきます。<br /> 私もそういう経験をしたことがあります。大病になっても、同じような問いがこみ上げてくるからです。私はいっぺん癌を患いました。一ヶ月程病院にいましたけれども、そのときには「自分は死ぬのかもしれない」と一瞬考えました。幸いにしてたいした癌ではなかったんですが、そうして死というものをつきつけられたときに、自分が何で生きているのかを考えさせられます。<br /> なぜ自分が生きているかを一番強烈に考えさせられるのは、自分の知っている人、つまり自分という固有性を越えた人の死に向き合うときです。私にとっては阪神・淡路大震災がそのときでした。ボランティアとして現地に駆けつけてみると、そこには知らない人の死がありました。「あんなに大勢死んでいるのに、なんで僕は生きているのか」と考えるきっかけを知らない人から与えられたとしたら、その人は絶対的な他者ではなくなっています。ここで極端な比較例を挙げますが、では、イランやイラクでの空爆で亡くなった人に対してどんな思いを抱くでしょうか。正直「ああ、大変なんだね」で終わることもあるのではないでしょうか。人間とは不思議なものです。<br /> 去年、秋葉原では一人の男性によって何人かの若者が殺されました。その中で、将来音楽家を目指していた、大学生のことが心を痛めました。芸術やアートをやりたいという人が殺されたということに対し、表現を志す皆さんは何か痛みを感じませんか。彼女は携帯電話のチラシ配りのアルバイトをしていたとき、目の前でトラックにはねられたお爺さんを助けに飛び出したところをナイフで刺されたそうです。なんでそれが僕ではなかったのか、私ではなかったのか。そういう想像力を抱いて、時々思い出した方がよいのではないかと思います。<br /> ちょうど今、應典院の2階のロビーでは、去年の8月にアフガニスタンで殺害された伊藤和也さんの写真展を行っています。彼はペシャワール会というNGOに入って、アフガニスタンに行って、こどもたちと馴染みになりました。そして写真をたくさん残しました。しかし大変不幸なことに、ゲリラの人質になって、何日も引き回されて、最後、捜索隊が囲んだときに殺されてしまいました。当時31歳の彼が現地で撮った写真が展示されています。ぜひ見ていってください。明日を生きるために、写真を見て考えてください。亡くなった人が私たちに何を伝えようとしているのかを。ただし、そのことは、絶えず耳をそばだてていかないと聞こえてはこないでしょう。<br /> 應典院の本堂にある、この阿弥陀さんという仏さんは、生と死ということがつながりあっていることを象徴する仏さんです。浄土宗ではよく南無阿弥陀仏と唱えます。南無というのは「おーい」と呼んでいることです。ですので、南無阿弥陀仏とは「阿弥陀仏、お願いします」という呼びかけを意味します。これを有名な絵本作家の葉祥明(よう・しょうめい)さんという方が「Call My Name」という絵本にされました。この中で、南無阿弥陀仏の一節をごく簡単に紹介している箇所があるので、少し紹介させていただきます。<br /><br />「人はこの世を去るときになって、ようやく生きるということの意味を真剣に考えます。しかし、人は生きているあいだに、たびたび死を思う必要があります。そうすることで真に生きることができるようになるのです。悲しみの淵から抜け出せないときには、私を思い、私を呼んでください。あなたが苦しんでいるとき、あなたが悩んでいるとき、いつもあなたのそばに私がいることを覚えておいてください。苦しいときは私を思ってください。肉体の苦しみ、こころの苦しみ、いかなる苦しみであれ、苦しみの中にあるときには、いつでも私のことを思ってください。苦しいときは私の名を呼んでください。私は決してあなたを一人で放っておきません。」<br /><br /> ここで言っている私というのは阿弥陀様です。先ほどは呼びかけという表現を使いましたが、阿弥陀様の立場からすれば、南無阿弥陀仏とは「私の名を呼んで」を意味するのだ、ということです。私の名を呼んだとき、私はあなたをひとりぼっちにしない、というレスポンスを阿弥陀仏は返してくださっているのです。では阿弥陀仏は何をしてくれるのか、呼びかけることでどんなメリットがあるのか、一体どんなサービスをしてくれるのかが気になるかもしれません。しかし、それは何もないのです。何もないんだけど呼びなさい、呼べばあなたは必ずあなたは救われるという、この目には見えない約束こそ、信仰なのです。<br /> 今日皆さんに伝えたいのは、お寺で、ご本尊の前で演じる劇は、果たして何なのかということです。彩られた空間、おしゃれな空間へと仕込んで、ある世界をつくるということはどういうことなのか、ということを考えて欲しいということです。人が心をうたれるにしても、なぜ皆さんは演劇をするのか、そしてなぜお寺で演劇をするのか。と言うのも、あなたがたのお芝居はここでやろうが、どこでやろうが変わらないかもしれません。しかし、見てる人の意識は変わっていると思った方がいいのではないでしょうか。<br /> 恐らく、お墓の風景を見ながら劇場に入ってきて、次にお芝居を連続して見る、これらは全く別物だとは思えません。何らかのイメージがつながっている、そんな風に考えています。先ほどからの話に重ねてみれば、墓場の風景を見ながらお寺の本堂での演劇を鑑賞することを意識するとき、その人は芝居を見るという経験から自分が生きている意味を見つめることへと突き戻されるのではないか、と思います。決してそれは自分がいかに生きて死ぬかという、自分が亡くなるという死の瞬間「death」への思いをかき立てるものではないはずです。これまでの自分を再生する、あるいは今を生きるチャンネルを切り替える機会をもたらしてくれるのではないかと考えています。<br /> 先ほど、救われることが約束だと言いました。ただ、人間は必ず死ぬ以上、死なないという約束はできません。しかし、死ぬということの不安や恐怖から救われるということは約束できます。それをもう少し置き換えれば、生きることがしんどいという人もたくさんいるし、すごく悲しい思いに浸っている人も多くいます。そうした人たちがお寺で演劇を見に来たときには、お芝居を見て、もう一度元気をもらい、生まれ変わることもあるのではないかと思っています。こんな風に言うと誤解があるかもしれませんが、お寺で各種の表現がなされ、そこに多くの人が足を運ぶとき、その場から生み出されるのは生のイメージや死のイメージではなく、生と死をつなぎとめるようなイメージではないかと考えています。<br /> 死を思うということは、決して残念なことでも悲しいことでもありません。死を思うことによって、何で今自分が生きているのか、何で私はここにいるのだろうか、これらのことを、もういっぺん考えるきっかけを得ることができます。こうして死を思うということが訓練、鍛錬されていくと、みんな強くなれます。くじけません。がんばれます。<br /> 芸術とか演劇を長くやってきた人と話をするときに思うことがあります。それは結局、アートをやっている人たちは、表現活動を通じてそういう訓練を自ら課しておられるのではないか、ということです。もちろん、一生演劇をやり続ける人もいれば、いずれ演劇から離れて演劇ではない人生を選ぶ人もいるかもしれません。しかし、劇団で活動を積み上げていくと、それぞれの心の中に芯として残る何かがあるでしょう。それはくじけない、がんばれる、そういう力をみんなで出し合っているからではないかと思います。学校の先生、教科書、そういうものから得られる学びとは異なるものから、魂をつかもうとしている、私は表現者たちの姿勢をそう捉えています。<br /> ぜひ、皆さんには伊藤くんの写真を見て、お墓を見て、たまには住職の話を聞いて、信仰を育てていただければと思います。そして、一緒に信仰を育てていきませんか。山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7962904260688716716.post-30736296912845188612009-10-18T20:58:00.002+09:002009-10-18T21:10:16.681+09:0010/17〜18 オリゴ党第27回公演「西には果てがないから」 オリゴ党さんの第27回公演「西には果てがないから」を鑑賞させていただきました。1993年にカラビンカで旗揚げされ、應典院とは2001年の第15回公演『グレガリア』という作品で初めてご縁をいただきました。その後、2008年の第25回公演『カーゴ・カルト』、そして、この2月28日・3月1日の第26回公演『主人公は死んでる』に続いてのご利用です。聞いた話ですが、こうして連続してご利用いただいているのも、應典院がバリアフリー仕様となっているため、とのことです。実際、今回のお芝居にも出演されていましたが、オリゴ党には、車いすをお使いの劇団員(役者)さんがいらっしゃるためです。<br /> 18年の歴史のあるオリゴ党さんが今回モチーフにされたのは西遊記でした。公演後、作・演出の岩橋さんに「仏教寺院での公演なので、西遊記だったのでしょうか?」と尋ねてみたところ、特にそういうわけではなかったようです。後付けで、お寺で、天竺に向かう話、となったとのこと。確かに、話の内容も、西遊記を直接展開しているというよりは、上述のとおり、日々の日常の生きづらさを、虚構の世界の人物像をオーバーラップさせることによって浮き彫りにするために、西遊記をモチーフにした、と捉えてよいのだと感じています。事実、本編の中でも、「別に西遊記でなくても、桃太郎でも」など、旅に出る物語、また冒険にまつわるエピソードなら何でもよい、という台詞が出てきたとおりに、それぞれに役割があり、そして目的地へと向かうものであれば、本作が取り扱った「生きる」ことの意味をいかに見出すかというテーマに接近できたでしょう。<br /> コミュニケーションということばが意思疎通というように理解され、物事をわかりやすく伝達することが評価され、いかに人と差し障りなく関わることがよしとされる、そんな時代です。老いること、病に伏せること、死ぬこと、こうしたことが苦しみであることは間違いありません。しかし、2008年6月の秋葉原事件が、やや遠い記憶になりつつあるようにも思うのですが、改めて生きることそのものが苦しみである、それを実感させられる時代が現代ではないでしょうか。例えば、Amazonで和書を検索してみると、この1〜2年のあいだに、「生きづらさ」ということばを掲げた本が、相次いで出版されています。<br /> 本当の自分が、ここではないどこかに行けば見つかる、そんな風に、今「自分探しの旅」に出る人々も多いと言います。また、本作の「オガワ」研究員が追究したように、出来もしないかもしれないが、「新たなコミュニケーションツール」を求めて自らの世界にこもる人も多いように思います。先に掲げた「生きる苦しみ」は、いわゆる「四苦八苦」のうちの「四苦」の一つなのですが、これに愛別離苦(あいべつりく:愛する人と離れることの苦)、怨憎会苦(おんぞうえく:怨み憎んでいる人に出会うことの苦)、求不得苦(ぐふとくく;求めるものが得られないことの苦)、五蘊盛苦(ごうんじょうく:色々な物質、自らが感受するもの、想起すること、意思を実行すること、世界を認識すること、それら5つにあらわされるような事柄が盛んに湧き上がることの苦)が加わると八苦となります。西遊記をモチーフにしたのは應典院だからではなく、「また次回公演などで(お寺でするということを)意識してみましょうか」と岩橋さんは仰っていましたが、個人的には実に仏教的な観点からも、感じ入るお芝居であったことを記させていただきました。山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7962904260688716716.post-48408200793394516712009-10-08T19:39:00.007+09:002009-10-08T20:27:43.527+09:00釈徹宗先生の仏典講座第二弾、本日開講!<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhnDVmohmOHFO9iaWN8vS7bAqeRnseKWHds5p4EI_WkcGjyDhmEifPZ7iOo9hRKZghu1_Ioc44RnCw0bxSGfgqyyGh6JGzJl4ejoQ4lnmzl__szUvitKdvl_EAhXLLCvdS3HO7-mOljCChd/s1600-h/20091008.jpg"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 320px; height: 240px;" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhnDVmohmOHFO9iaWN8vS7bAqeRnseKWHds5p4EI_WkcGjyDhmEifPZ7iOo9hRKZghu1_Ioc44RnCw0bxSGfgqyyGh6JGzJl4ejoQ4lnmzl__szUvitKdvl_EAhXLLCvdS3HO7-mOljCChd/s320/20091008.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5390189205761295330" /></a><br /> 最早、應典院にご縁のある方にはおなじみとなりました釈徹宗先生。2007年の秋に開講させていただきました仏典講座の第二弾を、本日より開講させていただきました。前回は原始仏典の一つ、ダンマパダを読み解いていきましたが、今回は大乗仏典を読み解いていくという趣向です。名付けて、「大乗仏典を読む」。<br /> 本日は、9月13日に実施いたしました、「寺子屋トーク第56回」にもご参加いただいた方々も多かったようです。末木先生との対談を軽妙に進められたことに、新たなファンも寄せたようにも思われ、当初予定していた應典院の研修室Bには入りきらず、急遽、大蓮寺の大広間で開催させていただくことにいたしました。開講一番、釈先生は、末木先生との対談の感想に触れられ、会場は談笑に包まれました。個人的には、末木先生が「ファイティングポーズ」を取らない姿勢に驚いた、と仰る、釈先生の率直な印象に興味を抱きました。<br /> 今回の仏典講座は3回連続で展開されます。今回は大乗仏典を読み解く上で鍵となる、「空」と「唯識」について取り上げる予定でした。が、空について丁寧に取り上げたために、唯識についての仏典を紐解くことができませんでした。それでも、絶対的なもの、また常なるものはない、ということを、お湯の温度の話などを比喩に用いて、わかりやすく説いていただきました。<br /> 大乗仏教の重要なところは、社会性や関係性を大切にするところ、というのがまとめのことばでした。聞く、読むことをことさら取り上げるのが大乗仏教とのことです。そうした観点も重なって、最後は全員で「回向文(えこうもん)」を読み上げて終わりました。実際、この回向文の日本語訳は、4月25日・26日に「ちべっと寺子屋ふぉーらむ」に来られたニチャンリンポチェ(ニンマ派)も「よい訳だ」と評されているとのことです。<br /><br />「願わくば此の功徳を以って普く一歳に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを」山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7962904260688716716.post-27050388651862596002009-09-28T19:43:00.000+09:002009-09-29T01:42:49.893+09:00いくつもの構造の相似形を見る:May「ボクサー」を観劇して 「この作品は相当の覚悟でつくりました」。May Frontview Vol.25「ボクサー」の千秋楽、作・演出の金哲義さんはカーテンコールの挨拶をそのことばで切り出した。第二幕のラストが、倉庫を改装した工場の片隅に吊されたサンドバックにもたれかかり、兄の息子の早すぎる死を悼みながら、肩を振るわせるシーンだっただけに、そのことばに重みを感じた。第1幕が約2時間、第2幕が40分程という長い作品を通じて訴えたのは、時代に翻弄されてきた韓国・朝鮮籍の生き様である。とはいえ、そのメッセージはこの作品にのみ特徴的なのではなく、昨年の應典院舞台芸術祭「space×drama」の参加公演「チャンソ」も、ひいてはMayの活動全般において、作者や役者らが一貫して向き合っているテーマである。<br /> 今回、済州島出身の兄弟を、まずは、ふくだひと美さんと木場夕子さんが、最終的には木下聖浩さんと金哲義さんが演じた。祖父母の時代、父母の時代、そして自らの時代と、時間軸が流れていくが、それぞれの家族を構成する役者ユニットがその変化にきちんと呼応しているところに、この作品の、またMayの芝居のメッセージ性が引き立てられていたように思う。つまり、それぞれの役者が親世代と子世代の二役を引き受けることで、個人的な出会いと社会的な構造の変容が、血縁という絶対的な関係の質を変化させていく必然性を見事に訴求することに成功しているのだ。変に難しい言い方になってしまったが、ともあれ、物理的な距離と精神的な距離の両面が、複線としての改装シーンではなく、人生を通じて引き受けていく個人の、家族の、そして民族の記憶への想起を促した。<br /> また、巧妙なキャスティングに加えて、韻を踏んだセリフがまた、物語のメリハリを生み出していた。正確な表現ではないが、「人間は生きて思想を作り出していくのに、生み出されてきた思想にしばられて生きる」、「ここに希望があるか、祖国に希望があるか、ふるさとに希望があるか、ではなく、自分の中に希望があるかどうかだ」などの言い回しが、随所に埋め込まれていたのである。さらに言えば、タイトルになぞらえられた、サイモンとガーファンクルの「ボクサー」が各所で流れるのだが、改めて歌詞に着目してみると、その歌い出し「I am just a poor boy…」からして、本作の世界観が通底した楽曲なのだ。このように、作品内はもとより、また作品内のいくつかの要素とのあいだで、いくつもの構造の相似形が埋め込まれいることを実感いただくには、公演中に収録されていたDVDを手に入れていただく他はないのかもしれない。<br /> 余韻に浸りながら地下鉄谷町九丁目駅まで歩くと、そこには列車の到着を気にも止めていないかのごとくに、改札口とホームのあいだで、友人との会話に夢中になる高校生のグループを目にした。椅子に座るでもなく、楽しく話を続ける彼女たちを横目に、急ぎ足で列車の運行状況を案内する表示に走った私は、扉が閉まった後、改めてせわしなく移動を求めている自分に気づいた。電車を乗り過ごしても、今、そこにいる仲間たちとの時間を大切にする。あまりに芝居のメッセージが強烈だったためか、その場面を見たとき、木場さんと金さんが演じた主役の成宗が、絶望的な今を正視しつつ未来への希望を信じつつ、過去や他者を背負うことで現在の苦しみに浸っている、などと考え込んでしまった。山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7962904260688716716.post-15965683010569374872009-09-17T09:39:00.002+09:002009-09-17T10:06:58.380+09:00ザ・おおさか編集長、南野佳代子さんご逝去。 まるで、おくやみの情報をお届けするブログのようになってしまっていますが、訃報です。應典院の催しはもとより、私たちが取り組んでいる「上町台地からまちを考える会」の催し等「ザ・おおさか」で紹介くださった、「ザ・淀川」の編集長、南野佳代子さんが15日に逝去されました。先ほど、考える会のオブザーバーの森さん(天王寺区役所)より、應典院にお電話を頂戴しました。謹んで哀悼の意を表します。<br /> 私、主幹の山口よりも、秋田光彦住職が長きにわたり懇意にさせていただいておりました。明るいお人柄で、よく、掲載誌はもとより、最新号を應典院にお持ちになられました。「近くまで来たから」と、仰いながら、1階「交流広場」にて配布させていただいているチラシを、にこやかな表情の中、鋭い目で選んでいらっしゃったように思えます。新聞には「多臓器不全」とありました。聞けば、まわりにはこれまで伏せられていたとのことですが、癌を患っていらっしゃったようです。<br /> 改めて考えると、「ザ・淀川」から生まれた「ザ・おおさか」は、「いやあ、英語の発音ではジ・おおさか、のはず」などという笑い話が通じるくらい、多くの方に浸透したコミュニティ誌でした。ふりかえると、刊行される組織名を「コミュニティー企画」とされていたことにも、南野さんの意欲を見て取ることができます。最近では「タウン誌」ということばを聞かなくなってきていますが、地域という意味でのコミュニティーと、読者のコミュニティーを丁寧に重ねていく作業は、インターネット隆盛の今の時代に、今一度学ばねばならない取り組みなのではないか、と感じております。稿を改めますが、先般の寺子屋トークでは80年代以降に葬式仏教と揶揄されてきた日本仏教における檀家制度の崩壊が始まった、という指摘をいただいたのですが、この議論に重ねて見れば、タウン誌の動きは生活環境の変化に対する、一つの揺り戻しや問題提起をしていた、とも考えられます。<br /> 淀川区の北大阪祭典にて、本日19:00〜お通夜、葬儀・告別式が11:00〜12:30とのことです。明日は都合をつけることが難しく、本日のお通夜に参列させていただきます。「いのちと出会う会」の開催中ではあるのですが……。應典院の11面観音像の横に置かせていただいてきた風景を思いを馳せつつ。山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7962904260688716716.post-35368606030579626772009-09-11T19:36:00.005+09:002009-09-17T10:07:21.832+09:00追悼:竹内敏晴先生 ブログの移転と再会のご挨拶を、このようなきっかけで行わせていただくことに、複雑な気持ちを抱えながら綴っております。思えば應典院のブログは、私、應典院の二代目主幹の山口洋典が着任した年に開設いたしました。その後、体制の変化や、スパムコメントの増加等を、一つの「エクスキューズ」にして、更新が停止してしまっておりました。今一度、今日の日のことを思い起こし、よりよい未来を創造していく契機とさせていただくべく、ここに再開させていただきます。<br /> 標記に記し、また以下に掲げさせていただきますとおり、長らく應典院でお世話になりました竹内敏晴先生が、膀胱癌により亡くなられました。本日、急遽本堂で供養の法要をさせていただきました。以下に記しますのは、秋田光彦住職がその後に述べられた言葉です。テープ起こしの文責は山口にありますが、今後、微細な表現を変更させていただく可能性があります。ともあれ、謹んで哀悼の意を捧げさせていただくべく、ここに掲載させていただきます。<br /><br />-----------------------<br /><br /> お聞き及びかと思いますけれども、長い間当山で「からだとことばのレッスン」を主宰していただきました竹内敏晴先生がご逝去されました。謹んで弔意を表したいと思います。<br /> ちょうど今年で竹内先生のレッスンが始まって十年目。実に変わらず矍鑠とした姿で、お目にかかる度に私に対して合掌をしていただくという、大変信仰のあつい先生でいらっしゃいました。何度か食事をご一緒したときにも、「秋田さん、法然上人のことをきちんと教えてくれ」と大家に言われて、それにきちんと応えられない自分がもどかしいまま、還らぬ人となられました。<br /> 竹内先生の業績は皆さん知っているかと思いますが、恐らく今、平田(オリザ)さんあたりが、身体とかコミュニケーションと仰っているその源流、あるいは斎藤孝さんが身体とかことばとかと仰っているその源流、今、先端と言われているそういった取り組みの元を辿れば、皆、竹内敏晴さんに行き当たります。<br /> 戦前は、いわゆる新劇運動、それは左翼運動になりましたけれども、もっとも、演劇が良くも悪くも社会的な、リベラルな政治と密接に関わりあった時代に、あるいは宮城教育大学、南山大学といった大学で、いわゆる身体教育としての演劇の研究に打ち込まれました。引退後は、全国各地の不登校やいじめや吃音といった、目には見えない障害を抱えた若者たちのために、何よりも苦境にある教師のために、日本の先生のために、身体との対話というメッセージを、演劇を通して伝えていただいた先生でした。<br /> 應典院では3年目に、(日本吃音臨床研究会の)伊藤先生からご紹介をいただいて教室が始まったんですが、私にとって、なぜ應典院が演劇などかということを開眼させられたのも、実は竹内先生との出会いであります。先生の本は数多く読ませていただいてきましたが、その中でも「場所を支える」ということはどういうことかということを書き上げられた一節が、いつも頭に植えついています。「場所を支えると言うことは表現を持ち上げることでもない。まず、その人が、いったい自分は何を表現をしたいのだろうか、ということを気づかせるために場所がある。そして同時に、何を表現してもよい。あれはいい、これはいい、という規制が始まったら、それは表現の場所ではない」と仰るのです。何を表現をしてもよいのだ、という大きな承認の中でこそ、人は表現者として第一歩を踏み出す。こういった、文字通り寛容に富んだ、場所の懐の深さや広さ、そのことと、恐らく「法然上人は心の広いかたですなぁ」と竹内先生が仰っていた言葉は、どこかで重なるんだというふうに、私は考えさせていただいております。<br /> 9月13日は、末木先生と釈先生の対談に満場のお客様を迎えますが、たまたまのことではありますが、私にとっても、皆さんにとっても、追善の思い、つまり善いことを追うために、寺子屋トークを成功させて、先生の霊前にお供えしたいと思います。ちなみに、既に密葬は終わられまして、一切公的な葬儀はなさらないとのことです。11月27日でしたか、お別れの会というものを名古屋で開催するとのことですが、伊藤先生にお聞きしましたら、自分は参加できない、とのことです。特に要請はございませんでしたが、何らかのかたちで弔意は表したいと思います。それと、伊藤先生からの伝言ですが、レッスンの会場はすべてキャンセルと聞いています。それでは最後に、もう一度、竹内先生の霊前にお十念を申しあげて終わりにしたいと思います。<br /><br />南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏<br />南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 <br /><br /> 山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7962904260688716716.post-7744382217070291082009-01-22T18:09:00.001+09:002009-05-28T12:07:30.410+09:00NHK中継+残りわずか。みなさま。<br /><br />突然のご報告ですが。<br /><br /><br /><br />これからNHKテレビ(大阪放送局)の生中継が入ります。<br /><br />小山田徹さんコーディネートの「減災のブリコラージュ」の風景を、です。<br /><br /><br /><br />應典院の前の道路には中継車が置かれ、警備の方も立っておられます。<br /><br />雨の中、なのですが。<br /><br /><br /><br /><div style="text-align: center;"><div style="text-align: center;"><img src="http://blog.drecom.jp/outenin/img/908/20090112nhk.jpg" class="photo" alt="20090112nhk.jpg" border="0" /></div></div><br /><br /><br /><br />ということで、もし、タイミング良く、テレビを見ることができれば、どうぞ、2チャンネルにあわせてみてください。<br /><br />インターネットの2chではございませんので、ご容赦くださいませ。<br /><br />ともあれ、18:45くらいから、5分程度です。<br /><br /><br /><br />ちなみに、本日と明日は19時30分から、LowPowersの公演、そしてチベット写真展は明日までです。<br /><br />あと残りわずかな<a href="http://www.outenin.com/otc/projects/commons2008.html" target="_blank">コモンズフェスタ</a>に、ぜひぜひ、お越し下さい。<br /><br />最終日には小山田徹さんをはじめ、今回の企画に関わったゲストが多数来られてのクロージングトークもあります!<br /><br /><br /><br /><br /><br />(山口洋典)山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7962904260688716716.post-48576740666663184942009-01-18T12:49:00.000+09:002009-05-28T12:22:50.421+09:00洞窟カフェ:Caver's Cafe先般、このブログで予告させていただいた、洞窟探検家のみなさんによるCaver's Cafe、ただいま開催中です!<br /><br />恐らく、19時くらいまで、いらっしゃっていただいています。<br /><br />小山田徹さんをはじめ「隊長」さん、など、4名のチームが洞窟探検体験にいざなっていただけます。<br /><br />先ほど、淡路島アートセンターからも、お二人、来られました!<br /><br /><br /><br />どうぞ、應典院にお越し下さいませ〜<br /><br /><br /><br /><div style="text-align: center;"><img src="http://blog.drecom.jp/outenin/img/907/20090118.jpg" class="photo" alt="20090118.jpg" border="0" /></div><br /><br /><br /><br />追伸:私はこれから隕石少年トースターさんたちの演劇鑑賞と、アフタートーク出演です。<br /><br /><br /><br /><div style="text-align: right;">(山口洋典)<br /><br /></div>山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7962904260688716716.post-405544290546863602009-01-14T23:17:00.001+09:002009-05-28T12:23:31.908+09:003日ぶり+詩の学校 3日ぶりの更新となりました。いや、なってしまいました…。まるで、とんねるずの「細かすぎて伝わらない」ものまね選手権での、川平慈英さんの真似をする博多大吉・華丸の華丸さんのような書き出しで申し訳ありません。というか、この表現こそが、細かすぎて伝わらないかもしれません。<br /><br /> ともあれ、コモンズフェスタの一つ目の波が過ぎました。一つ目の波は、9日のオープニングトーク、10日の小山田さんのトーク、11日のタミヤリョウコさんのワークショップ、そして9日から12日までのremoの皆さんの協力による映像上映、それらを指しています。きちんとそれらの報告などもさせていただきたかったのですが、應典院主幹、應典院寺町倶楽部事務局長の山口の体調が崩れてしまいました。ともあれ、だいぶ復調いたしましたので、ご安心かつご期待くださいませ。<br /><br /> そんななか、今日から2つめの波がやってきました。今日14日は<a href="http://www.kanayo-net.com/" target="_blank">上田假奈代さん</a>による詩の学校震災スペシャル、明日15日は大蓮寺での三帰会の皆さんによる「<a href="http://uemachi.cotocoto.jp/event/29080" target="_blank">防災てらまちトーク</a>」、そして16日からは<a href="http://www.inseki.jp/coffee/" target="_blank">隕石少年トースターの皆さん</a>による防災演劇が始まります。ぜひぜひ、第二の波にも、ご期待いただければ、と思います。隕石少年トースターの<a href="http://www.theater-reservation.com/ticket1/ticket_reservation.cgi?id=20090116inseki&c=7" target="_blank">チケット</a>は、売り切れが出ている回もあるようなので、お早めにチェックくださいませ。<br /><br /> ちなみに、今日の詩の学校、私自身も楽しませていただきました。應典院で働き始めてまもなく3年となるのですが、実は詩作をちゃんとするのは初めてでした。毎月一回開催されている詩の学校の「特別編」として、開会前には、秋田光彦大蓮寺住職によるミニ法話がが催されるという趣向つきでした。新潟県中越地震の際に土砂崩れの中から2歳の皆川優太くんを助けたレスキュー隊の「呼びかけ」のことに触れられ、釈迦が説いたとされる「比丘たちよ、いざ遊行せよ。多くの人の利益と幸福のために。世間を憐れみ、人天の利益と幸福と安楽のために。」という『サンユッタ・ニカーヤ』の仏典が紹介されました。<br /><br /><div style="text-align: right;">(山口洋典)<br /><br /><br /><br /><img src="http://blog.drecom.jp/outenin/img/906/20090114.jpg" class="photo" alt="20090114.jpg" border="0" /><br /><br /></div>山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7962904260688716716.post-76322139480326812702009-01-11T21:52:00.000+09:002009-05-28T13:30:45.784+09:00コミュニケーションの回路を考える コモンズフェスタも3日目となりました。それでも、あと2週間続きます。今思えば2006年度は1ヶ月間でしたから、それに比べれば短いかもしれません。それでも、集中力、緊張感を保つことができるよう、留意して参ります。<br /><br /><img src="http://blog.drecom.jp/outenin/img/905/20090111-1.jpg" class="photo" alt="20090111-1.jpg" align="left" border="0" /> 3日目のコモンズフェスタ、本日の目玉はライターのタミヤリョウコさんによるコミュニケーションに関するワークショップでした。いわゆる民間療法によるマッサージと感想交流を行うワークショップが行われ、合計で7名に参加をいただきました。これも、いざというときに、他者にきちんと向き合えるかどうかを考えて欲しい、という意図が込められていました。しかし、感想交流の際には、そうした意図を超えて、日々の生活でどんな暮らしを送っていくのがいいのかを考えた、と仰る方がいらっしゃったのが印象的でした。<br /><br /> 午後の時間にワークショップが行われましたが、その前の時間には「超日常の風景から」の撮影を手伝っていただいた東京在住の学生さんたちが来られました。実際に撮影した映像が、どんな風に再現されているかを見たい、という思いからやってきてくれました。実にありがたいことです。そんな展示もあと1日ですので、ぜひとも、多くの方にお越しいただければ、と願っております。<br /><br /> 明日は特別なイベントは行われませんが、上記のとおり、「超日常の風景から」の展示が最終日となります。また、研修室では、16日から始まる隕石少年トースターの稽古が行われます。ある意味、「やや日常」のコモンズフェスタにお越しいただくのもよいでしょう。ちなみに、今日もまた、皆さまから「ブリコラージュアイデア」が寄せられまして、窓際に吊られたアイデアメモが、さらに目立つようになってきました。<br /><br /><br /><br /><div style="text-align: right;"><img src="http://blog.drecom.jp/outenin/img/905/20090111-2.jpg" class="photo" alt="20090111-2.jpg" border="0" /><br /><br /><br /><br />(山口洋典)</div>山口洋典http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543noreply@blogger.com0