2009年9月11日金曜日

追悼:竹内敏晴先生

 ブログの移転と再会のご挨拶を、このようなきっかけで行わせていただくことに、複雑な気持ちを抱えながら綴っております。思えば應典院のブログは、私、應典院の二代目主幹の山口洋典が着任した年に開設いたしました。その後、体制の変化や、スパムコメントの増加等を、一つの「エクスキューズ」にして、更新が停止してしまっておりました。今一度、今日の日のことを思い起こし、よりよい未来を創造していく契機とさせていただくべく、ここに再開させていただきます。
 標記に記し、また以下に掲げさせていただきますとおり、長らく應典院でお世話になりました竹内敏晴先生が、膀胱癌により亡くなられました。本日、急遽本堂で供養の法要をさせていただきました。以下に記しますのは、秋田光彦住職がその後に述べられた言葉です。テープ起こしの文責は山口にありますが、今後、微細な表現を変更させていただく可能性があります。ともあれ、謹んで哀悼の意を捧げさせていただくべく、ここに掲載させていただきます。

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 お聞き及びかと思いますけれども、長い間当山で「からだとことばのレッスン」を主宰していただきました竹内敏晴先生がご逝去されました。謹んで弔意を表したいと思います。
 ちょうど今年で竹内先生のレッスンが始まって十年目。実に変わらず矍鑠とした姿で、お目にかかる度に私に対して合掌をしていただくという、大変信仰のあつい先生でいらっしゃいました。何度か食事をご一緒したときにも、「秋田さん、法然上人のことをきちんと教えてくれ」と大家に言われて、それにきちんと応えられない自分がもどかしいまま、還らぬ人となられました。
 竹内先生の業績は皆さん知っているかと思いますが、恐らく今、平田(オリザ)さんあたりが、身体とかコミュニケーションと仰っているその源流、あるいは斎藤孝さんが身体とかことばとかと仰っているその源流、今、先端と言われているそういった取り組みの元を辿れば、皆、竹内敏晴さんに行き当たります。
 戦前は、いわゆる新劇運動、それは左翼運動になりましたけれども、もっとも、演劇が良くも悪くも社会的な、リベラルな政治と密接に関わりあった時代に、あるいは宮城教育大学、南山大学といった大学で、いわゆる身体教育としての演劇の研究に打ち込まれました。引退後は、全国各地の不登校やいじめや吃音といった、目には見えない障害を抱えた若者たちのために、何よりも苦境にある教師のために、日本の先生のために、身体との対話というメッセージを、演劇を通して伝えていただいた先生でした。
 應典院では3年目に、(日本吃音臨床研究会の)伊藤先生からご紹介をいただいて教室が始まったんですが、私にとって、なぜ應典院が演劇などかということを開眼させられたのも、実は竹内先生との出会いであります。先生の本は数多く読ませていただいてきましたが、その中でも「場所を支える」ということはどういうことかということを書き上げられた一節が、いつも頭に植えついています。「場所を支えると言うことは表現を持ち上げることでもない。まず、その人が、いったい自分は何を表現をしたいのだろうか、ということを気づかせるために場所がある。そして同時に、何を表現してもよい。あれはいい、これはいい、という規制が始まったら、それは表現の場所ではない」と仰るのです。何を表現をしてもよいのだ、という大きな承認の中でこそ、人は表現者として第一歩を踏み出す。こういった、文字通り寛容に富んだ、場所の懐の深さや広さ、そのことと、恐らく「法然上人は心の広いかたですなぁ」と竹内先生が仰っていた言葉は、どこかで重なるんだというふうに、私は考えさせていただいております。
 9月13日は、末木先生と釈先生の対談に満場のお客様を迎えますが、たまたまのことではありますが、私にとっても、皆さんにとっても、追善の思い、つまり善いことを追うために、寺子屋トークを成功させて、先生の霊前にお供えしたいと思います。ちなみに、既に密葬は終わられまして、一切公的な葬儀はなさらないとのことです。11月27日でしたか、お別れの会というものを名古屋で開催するとのことですが、伊藤先生にお聞きしましたら、自分は参加できない、とのことです。特に要請はございませんでしたが、何らかのかたちで弔意は表したいと思います。それと、伊藤先生からの伝言ですが、レッスンの会場はすべてキャンセルと聞いています。それでは最後に、もう一度、竹内先生の霊前にお十念を申しあげて終わりにしたいと思います。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 

 

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