2009年9月28日月曜日

いくつもの構造の相似形を見る:May「ボクサー」を観劇して

 「この作品は相当の覚悟でつくりました」。May Frontview Vol.25「ボクサー」の千秋楽、作・演出の金哲義さんはカーテンコールの挨拶をそのことばで切り出した。第二幕のラストが、倉庫を改装した工場の片隅に吊されたサンドバックにもたれかかり、兄の息子の早すぎる死を悼みながら、肩を振るわせるシーンだっただけに、そのことばに重みを感じた。第1幕が約2時間、第2幕が40分程という長い作品を通じて訴えたのは、時代に翻弄されてきた韓国・朝鮮籍の生き様である。とはいえ、そのメッセージはこの作品にのみ特徴的なのではなく、昨年の應典院舞台芸術祭「space×drama」の参加公演「チャンソ」も、ひいてはMayの活動全般において、作者や役者らが一貫して向き合っているテーマである。
 今回、済州島出身の兄弟を、まずは、ふくだひと美さんと木場夕子さんが、最終的には木下聖浩さんと金哲義さんが演じた。祖父母の時代、父母の時代、そして自らの時代と、時間軸が流れていくが、それぞれの家族を構成する役者ユニットがその変化にきちんと呼応しているところに、この作品の、またMayの芝居のメッセージ性が引き立てられていたように思う。つまり、それぞれの役者が親世代と子世代の二役を引き受けることで、個人的な出会いと社会的な構造の変容が、血縁という絶対的な関係の質を変化させていく必然性を見事に訴求することに成功しているのだ。変に難しい言い方になってしまったが、ともあれ、物理的な距離と精神的な距離の両面が、複線としての改装シーンではなく、人生を通じて引き受けていく個人の、家族の、そして民族の記憶への想起を促した。
 また、巧妙なキャスティングに加えて、韻を踏んだセリフがまた、物語のメリハリを生み出していた。正確な表現ではないが、「人間は生きて思想を作り出していくのに、生み出されてきた思想にしばられて生きる」、「ここに希望があるか、祖国に希望があるか、ふるさとに希望があるか、ではなく、自分の中に希望があるかどうかだ」などの言い回しが、随所に埋め込まれていたのである。さらに言えば、タイトルになぞらえられた、サイモンとガーファンクルの「ボクサー」が各所で流れるのだが、改めて歌詞に着目してみると、その歌い出し「I am just a poor boy…」からして、本作の世界観が通底した楽曲なのだ。このように、作品内はもとより、また作品内のいくつかの要素とのあいだで、いくつもの構造の相似形が埋め込まれいることを実感いただくには、公演中に収録されていたDVDを手に入れていただく他はないのかもしれない。
 余韻に浸りながら地下鉄谷町九丁目駅まで歩くと、そこには列車の到着を気にも止めていないかのごとくに、改札口とホームのあいだで、友人との会話に夢中になる高校生のグループを目にした。椅子に座るでもなく、楽しく話を続ける彼女たちを横目に、急ぎ足で列車の運行状況を案内する表示に走った私は、扉が閉まった後、改めてせわしなく移動を求めている自分に気づいた。電車を乗り過ごしても、今、そこにいる仲間たちとの時間を大切にする。あまりに芝居のメッセージが強烈だったためか、その場面を見たとき、木場さんと金さんが演じた主役の成宗が、絶望的な今を正視しつつ未来への希望を信じつつ、過去や他者を背負うことで現在の苦しみに浸っている、などと考え込んでしまった。

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