2010年1月5日火曜日

應典院より年頭のご挨拶:「責任」ということ

 謹賀新年、今年もよろしくお願いいたします。應典院のトップページからはリンクが見えないという、應典院の裏面を記しているようなブログです。だからと言って、更新の頻度が落ちてはならないのでしょうが、昨年は末に近づくについれ「コモンズフェスタ」の準備等でてんてこまいとなり、書く、ということがおそろかになってしまいました。もちろん、何らかの書き物は重ねてきていたので、おそろかになってしまったのは、伝えること、あるいは届けること、もしくは自らの歩みを振り返ることだったのかもしれません。
 そんななか、本日、1月5日、應典院は仕事始めでした。ついては朝9時から、恒例の秋田光彦代表による法話がなされました。そのお話が、私(山口)が直面している課題、あるいは壁、それそのものであったと感じ入っておりました。iPhoneで録音をしたものから文字にしましたので、精確には「テープ起こし」ではないのですが、特に前半部分、つまりは「抱負」の前までのところについて、皆様と共有させていただければ、と思います。実はただいまウェブサイトのリニューアル計画を構想、設計中でして、こうした書き物、綴り物は、今後、「コラム」的に、随時発表していく予定です。
 ともあれ、應典院から皆様への年頭のご挨拶の意味も込めて、以下、代表のお話を掲載させていただきます。一部、話しことばの言い回しを尊重した箇所があるため、文意がわかりにくくなってしまっているところがあるかもしれません。場合によっては随時修正させていただくことがありますので、ご承知置きくださいませ。ということで、また、ちょこちょこと覗いていただければうれしく思います。
 どうぞ、今年一年も、よろしくお願いいたします。なお、このブログとは別に、秋田代表と協力者の浦嶋さんによる生と死を考えるブログ「みとりびとは、いく(http://mitoribito.blogspot.com)」、さらには應典院におけるアートとNPOの総合芸術文化祭「コモンズフェスタ(http://commonsfesta.blogspot.com)」なども運用しております。どうぞ、あわせてお見知り置き願います。

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 あけましておめでとうございます。旧年中はお世話になりました。どうぞ今年もよろしくお願いいたします。
 どんなお正月を迎えられたでしょうか?私は原稿三昧でしたが、それぞれに家族や友人と親睦を深められたと思います。同時に、この一年をどういう一年でありたいか、ということを胸にしたのではないでしょうか?毎日が元旦だったら、よし、今日は頑張るぞ、という気持ちになりますが、その気持ちをなるべく持続できるように頑張って頂きたいと思っています。
 年始にあたって、今日は責任ということについてお話をします。お正月のあいだ、ある作家のエッセイをパラパラっと見ていましたら、おもしろいことが書いてありました。「日本語は打つのではなく、書くのだ」と。この「打つ」というのは当然キーボードのことです。今、ほとんどの日本語は打つものであり、横書きになってしまっている。けれども、その方は書家の方ということもあって、あくまで日本語は手書きで縦に書くものだ、ということを非常に強調しておられました。
 特にインターネットやメールを多用する私たちです。これは皆さん、自覚されていると思いますが、私たちはメールを打つとき、インターネットをするときに、自分自身の存在に匿名感を持ったりします。自分が誰か、という自覚が薄れることを経験されたことはないでしょうか?例えば、よくある脅迫メールや、中学生たちのチェーンメールなどは、匿名で相手を攻撃するものです。昔はそういう手紙がなかったわけではありませんけれども、「インターネットの時代には非常に顕著なのは、インターネットの中に横溢している日本語には責任がない」というふうに、その先生は書かれておられました。
 例えば、「お前、殺すぞ」と、手で書こうと思うと、「殺すぞ」と書くまでに、いろんなブレーキが入って、それを抑制するのではないでしょうか。脳が働いて、手の筋肉が反応しながら、こんなことは書いてはいけない、と自分を抑えようとしする、自制のコントロールが働くのではないでしょうか。しかし、キーボードでは「殺すぞ」と打ってしまう。その先生は、横書きで打つ日本語では絶えずある種の軽薄さはらんでいると警鐘を鳴らしているのです。
 もちろん、今更鉛筆を持って、マス目を一個一個埋めながら書くということは、私などは完全にできませんけれども、この話から改めて感じたことは、大事なことは打つのか書くのかという行為の性質だけではなく、自分の書いたことや言ったことに対して、どれだけきちんと責任を取るか、ということではないかということです。匿名性の問題というのは、絶えず責任の欠落ということとセットになっています。特に怖いのは、責任の主体である「私」が、匿名の透明の人間になってしまって、自分ではない自分がここにいて、何でもできるような全能感にあふれてしまって、自分というものの実態とは違う存在になってしまうことです。
 平野啓一郎という作家の『ドーン』という小説を読みましたけれども、大変面白かったです。彼はそういうことをメッセージとして言いたいのでしょう。今、この時代を生きている私たちは、生まれながらにして多重人格を兼ね備えている、と書いています。昔は多重性というと、ものすごく可能性があるように思いましたが、多重な自分の中のどこに自分の実態があるのかがわからなくなってしまっているという近未来を書いた小説です。
 責任ということばは、英語ではresponsibilityと言い、応答という意味を持ちます。日本人が「責任を感じる」と言うときの責任というのは、何か上から一方的に指示されて、「責任を取れ」というような感じの問われ方がなされることがあるので、責任というのは重苦しくって、縛りが強いものと感じがちです。しかし、英語の文化圏での概念では、責任は応答を意味します。つまり、responsibilityということばから考えると、まわりの人たちは私に呼びかけてくれている、まわりの人たちは私たちに応えてくれているという具合に、まわりの人たちに呼びかけ、呼びかけれる中で、互いの存在を確かめ合う宛先になることが責任なのだ、ということになります。
 我々の職場というのは、非常にことばが多い世界です。私も元々ことばが多い方です。しかし、それらのことばに特徴的なのは、極めて観念語、観念的なことばが多いということです。あるいは理想語と言ってもいいかもしれません。「こうあればいいな」ということを、すぐにことばにしてしまえるという、非常にいいポジションにいると言ってもいいかもしれません。教育が、アートが、宗教が、あまり現実を語りすぎたら、現実の見にくい部分を語ってしまうと、教育、アート、宗教ではなくなってしまいます。だからこそ私たちは、非常に美しい観念語を語りがちです。市民社会ということばも含めて。
 しかし、もう一度、私たちが謙虚に振り返らなければならないのは、私たちは本当にその美しいことばに責任を持っているだろうか、ということです。そのことを改めて再確認したいと思います。我々の行っている教育やアートや宗教というのは、人間の実存に関わる仕事です。簡単に言えば、人間の生と死に非常に接近しがちなポジションに私たちはいるわけです。その私たちが発することばというのは、ことばの巧みさや、ことばの多い少ないのみならず、そのことばが持っている深い定位にある意味そのものを、実は相手の方はくみ取ろうとされているのではないか、ということを肝に銘じた方がよいと思っています。
 私たちはことばは情報でありツールである、というふうに受け止めがちですが、私はそうではないと思うんです。もちろん、情報でありツールであるんですが、その向こう側には、ことばというものが持っている、深い厚み、人格そのものをあらわす、深い色合いがことばの定位には蓄えられていると思っています。それは意味以前の話です。
 私はこの職場で繰り返し「価値をつくろう」ということを言ってきましたが、これは実に大それたことなんです。そう簡単には実は言ってはいけないことなんです。価値っていったい誰が価値と決めるんだ、一人で良いことを言って「これが理想だ」と言ったとしても、それはその人のわがままで、好きなことを言っているだけで、それは価値とは言いません。では、日本人全体があることを知ってもらったら価値になるのか、と言えば、それはテレビのバラエティーにでも出ない限り、たぶんできないでしょう。つまり今日、価値というものの価値づけそのものも、非常に難しくなってきている時代であると思っています。
 ただ、私は価値をつくろうという夢や企みは、決して忘れたくありません。しかし、価値をつくるということに対する畏れ、また価値を届けるということの責任、このことは私たちは深く、肝に銘じないといけないと思っています。
 恐らく、多くの人たちは、この空間の持っている、ある種の精神性に対して、多くの人はリスペクトの気持ちを持ってやってきます。そのリスペクトを、間違っても、俺たちがやっていることがすごいから、ではなく、私たち一人ひとりの責任として受け止めながら、何を返していくのか。自分たちの存在に対して応答してくださっている皆さんにふさわしいことばや行いに対して、どうことばや行いを返していけばいいのか、その一つひとつに誠実であって欲しい、一つひとつに気持ちを込めてもらいたい、それがまず私たちの果たすことができる責任への第一歩だと思っています。そういうことを重ねていくと、自ずと教わっていくんですよ。そういうときに、ああ、責任というのは、決して誰かから押しつけられた負荷ではなく、私たち一人ひとりの中に輝きを保つ使命みたいなものだ、ということに気づいてもらえれば、と思っています。
(後略)

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