2007年1月3日水曜日

年頭所感

 時節柄、年頭所感、ということばをよく目にします。その昔、テレビの番組欄を見ていると「社長あいさつ」という番組があり、興味を持ちました。初日の出の時間くらいに5分程度行われるのですが、なんとも、文字通りにその局の社長さんが年頭のあいさつをされる、というものでした。「そのままやんけ」などというつっこみをするわけでもなく、すぐに番組を変えたように思えます。

 「所感」ということばを辞書でひくと(明鏡国語辞典)、「折にふれて心に感じたこと」とあります。さらに「折りにふれて」は「機会があるごとに」という意味だそうです。こんな風に考えていくと、「心に感じる」ということばも、若干やっかいです。心「に」感じるということは、心というのは「場所」として示されうるもの、という前提が成り立つためです。

 昨年、再開した「コモンズフェスタ」のパンフレットにも似たようなことを綴っていますが、場所というのは時間と空間の掛け合わせて生まれる意味の集合体です。なんと小難しいことを、と思われますが、要するに、空間だけでは「場」にはならないのです。もちろん、その「場」には、ある時間とある空間を共有する仲間の存在が欠かせません。キャンプのリーダーなど野外教育に携わる方は、この「時間」「空間」「仲間」を「さんま」と呼び、集団生活の大切さを訴える際の物語によく用いていらっしゃいます。

 心は個人のなかにあるのではなく、人とのあいだにある。やや唐突かもしれませんが、「心に感じる」というのは、私という個人の肉体のなかにある何かに感じ取られていくのではなく、誰かと誰かのあいだ(間)を感じ取っていく能動的な営みであると考えていただきたいと思います。そうすると、本日、住職からスタッフに届けられた年頭のメールの内容も、また年賀状に記されている「称名念仏とは、つまり身体の内部から立ち起こる能動的なアクションであり、それは仏と私たちの出会いの場を創造してきました」ということばも合点がいくのではないでしょうか?まあ、本当にクドクドと綴ってしまいましたが、年頭の所感、とはそれまでとこれからの両方に思いを馳せて、新たな出会いの場を創造する営みを続けていく決意を表明する、そんなことではないか、と1月5日の互例会を想像しながら考えてみるのでした。

<主幹>

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