2007年1月2日火曜日

違いのなかにある弱さ

 應典院の年末年始は、本寺(ほんでら)である大蓮寺(だいれんじ)の除夜の鐘のお手伝いで年を終え、同時に新たな年の始まりを迎えます。2006年から2007年もまた、同じでした。夜の10時くらいにスタッフが集まりはじめ、たき火や生姜湯の準備を始めます。早い方はボチボチ、鐘撞きの順番を取りに来られ、ノートに名前を残し始めます。住職によれば、下寺町の寺筋でも、一般の方に撞いていただくのは大蓮寺くらいで、お近くでは一心寺が同じように撞いていただいているとのことです。

 除夜の鐘は、一番が住職、二番が院代さん、そして三番目が應典院主幹の私、その後は應典院のスタッフ(劇場担当の城田主務)、小僧インターンの日高くん、と内部の人間が続き、そうして一般の皆さんが撞かれていきました。通常、煩悩の数と言われる108回を撞くことと思われますが、大蓮寺は「大盤振舞」で、撞きたい方がいらっしゃる限り撞いていただきます。

 果てしなく続けることもありうる除夜の鐘ですが、大切に守っているのは、54発目を年越しの時間に撞く、ということです。その「ダイヤ管理」は、應典院寺町倶楽部の扇谷会長が務めることが多いそうですが、今回は應典院の池野事務局長が務めました。そして、54発目を撞くことになったのも、池野事務局長でした。

 54発目が撞かれたのを見て、大蓮寺の本堂では、新年のお勤めが始まりました。総勢20名程度のご参加をいただき、ご焼香もいただいた後、住職から念頭の法話がなされました。主な話題は「いじめ」でして、住職が以前入院していた際に病院の院内学級の先生に伺ったところでは、病気と闘っている仲間どうしとして助け合い協力しあう関係が出来上がる院内学級の子どもたちのあいだでは「いじめ」が起こらない、とのことです。皆と少し違う子どもが標的にされやすい「いじめ」の構造のなかで、少し違う存在を受け止めること、さらにはその奥にある弱さに共感し、寄り添う感性を持つことの大切さに気づくこと、それを法然上人の「愚者の自覚」ということばで締めくくり、多くの人たちの新たな一年の計に添えていらっしゃったのが印象的でありました。

<主幹>

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